つれづれのおと

ディアマイロックスター

【再録】生きよう、声高らかに~THE YELLOW MONKEYが「Live Loud」で響かせる、30年の境地

 再録はこれでおしまいです(新たにブログを書くことはあるんだろうか…)。2021年2月19日に載せていただいた模様。

 とにかくこのライブアルバムが良すぎて、本当に好きで今でもずっと聴いちゃう時があるんですが、なんとなく同じ時期に発売された円盤の陰に隠れているような気がしたのが口惜しく(勝手な被害妄想)、書き綴った覚えがあります。

 大好きなミュージシャンの曲は、というかそういう曲を作るミュージシャンを好きになるのですが、耳に入ってくるとブワッ!と体中に何かが走って血が普段以上の早さで巡り、頭の中にわーっとイメージが広がるような感じがします。それで勝手に体が動いてしまうのですが、このアルバムはことにそういう感覚になるのでした。やっぱりライブでの演奏というエネルギーがそれを加速させるのか。

 わたしは別にライブでめっちゃ声出したい!!派ではないのですが(むしろ別のお客さんの大声歌唱は聞きたくないし、曲の間もシーンとしてた方がメンバー同士のやりとりとかが聞こえてありがたい)、ライブって、観ているだけで、体を動かすだけで、なんかこう、交歓するものがあるように感じるのです。何でだろう。やっぱり会話でも動作でもパフォーマンスや作品でも何でも、内にあるものを表出しそれを受け取りあう、という営みであるからか。

 そんなアルバムに反して前の4本以上に文章が堅苦しくて長すぎるのは、多分この時期ずーっと仕事ばっかりしていて、娯楽どころか仕事の…つまり自分を出すことは決してせず相手の動向を常にうかがいながら切るべきカードを切るみたいな感じのコミュニケーション、以外のそれに飢え過ぎていたからと推察。まあ今もそうなんだけども…。

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 ライブはコミュニケーションの場である。
 コミュニケーションとは一般的に「意思疎通すること」、つまり互いが互いに気持ちを伝えて受け取るという双方向で行う営みとされる。
 ライブやコンサートは、アーティストが披露した音楽を観客が聴きに行く場だ。一見すると、投げかけているのはアーティスト側のみであり、「疎通」すること、つまり双方向で行うものとは違うように思われる。しかし、観客はアーティスト側が発信するものを聴くことで心を動かされた場合、何らかの感情を発出する。それは声であったり、身振りであったり表情であったり、時にはごくわずかな(しかし、集まれば大きな)空気のゆらぎとして表に現れる。そんな「反応」がアーティスト側に伝わった場合、まさにそこにはコミュニケーションが成立していると言えるだろう。


 THE YELLOW MONKEYが2021年最初にリリースしたのは、ライブ・アルバム「Live Loud」だ。
 再集結後の彼らのライブ音源はこれまでも、2016年のシングル「砂の塔」の特典という形で(とはいえアルバムといっても過言ではない曲数が)収録されていたり、配信でリリースされるなどしてきた。しかし、きちんとしたアルバムという形で世に送り出されるのは、実に20年ぶりのことである。
 収録されているのは、彼らが2019年から2020年にかけて行った3つのドーム公演の音源。その中からファン投票で選ばれた曲がピックアップされて並べられている。
 しかし、実はこのアルバムがリリースされた約1ヶ月後、同じ3公演の映像が収録されたブルーレイ・DVDが発売される。映像でライブの様子が、しかもセットリストの順を追ってほぼすべて見聞きできるのである。
 だとすれば今回、わざわざ音源だけを形にした意味とはいったいどういったものなのであろうか。一介のファンには推し量ることしかできないが、とはいえこのアルバムを通して聴いたとき、その意味がわかったような気がした。
 単純に、音楽としてとても格好よく、胸躍らされるものであったからだ。
 THE YELLOW MONKEYはライブ・バンドであり、ライブを通じて成長してきたバンドだ。これは、メンバーあるいはスタッフによる、各所のインタビュー等でもよく口にされていることだ。
 もちろん、リリースされたままの原曲も素晴らしく心を揺さぶってくるものばかりではある。しかしそれがライブで披露されたとき、彼らの生のパフォーマンスをもって発されたとき、その威力は計り知れないものと化す。人間であるがゆえ、コンディションとして最高ではないときもあるのだろうが、それでも彼らはひとつひとつのライブを通して、彼らの音楽を、そして彼らのバンド像を作り上げてきたのだろう。
 もちろん、衣装や映像などの効果、仕草といった見目に訴えるものも表現のうちであり、ブラッシュアップされてきたものではある。しかし、バンドとして核となるのはやはり聴覚に訴えるもの、つまり音楽だ。それが聴き手に届かなければ、心を動かすものでなければ、ライブの本質の一つともいえる「コミュニケーション」は成立しない。
 そのコミュニケーションの核となるもの、すなわち音楽のみを切り取って形にしたということ。それはおそらく、再集結後にも数々のライブを通して成長してきた彼らが、音だけを出したとしても十分勝負できるという自負ができたということの表れなのかもしれない。
 実際、このアルバムに収録されている曲たちは、解散前と再集結後のものとに関わらず、すべてが「今」の彼らの音になっている。ただ過去の演奏や音源が再現されているのではなく(それだとしても十分すごいことではあるが)、ここまでミュージシャンそしてバンドとして進化してきた彼らの実力が如実に表れているのだ。一言で言えば、文句なくかっこいい。映像がなかったとしても、血が湧くような興奮をおぼえるほどに。
 聴き手の心をこれだけ動かせるものを作り上げたということ、キャリアを長く持ちながらなお音楽的にも成長し続けているということ。そんな彼らの凄味を味わえる、ある意味集大成的なアルバムなのだ。

 さて、とはいえ昨今、ライブを開催するということに関しては困難な状況が続いている。
 先に挙げたような「コミュニケーション」としてのライブ、つまりひとところに大勢の人を集め、大きな声をあげ…といった活動は、感染症の予防という観点からするとかなり厳しいものがある。そもそも遮るものなしに対面でしゃべるだけで容易にうつし合ってしまう病気だ。ライブにとどまらない「コミュニケーション」というもの、それ自体の機会が社会全体から格段に削られている。
 そんな中、THE YELLOW MONKEYは2020年11月3日、東京ドームでライブを行った。
 演者こそマスクをせず(パフォーマンス上、途中で一度する場面もあったが)普段と同じようなステージングではあったものの、収容人数は満員の約半分で観客は全員マスクを着用し声は出さない。そのような状況下で行われたライブは、とはいえそれまでのライブと同等、またはそれ以上の盛り上がりをもって終幕した。
 ライブ・アルバムというと、観客の歓声や歌声が収められていることも多い。絶妙な音量やタイミングとともに差し込まれるそれは、今作でもライブの盛り上がりがダイレクトに伝わり臨場感が得られる一因となっている。
 とはいえ、東京ドームのライブには前述した制約があり、観客の盛り上がりを音で伝えられる術はない…はずであった。ところが音源には、メンバーのパフォーマンスに呼応するような、観客の歓声や歌声が収められているのである。
 これは、その場にいた観客が出したものではない。事前にファンから募集した歓声や歌声を演奏に合わせて会場で流したものだ。
 広い会場特有の声のずれや、メンバーのアドリブに合わせたイレギュラーなコールアンドレスポンスはない。けれどアルバムとして聴いていると、まだ声を出すことへの制限がなかった他の二つのライブと遜色がない盛り上がりが伝わってくる。アルバムの中に収録されている中でも東京ドームの音源は、「バラ色の日々」や「JAM」といった、彼らの代表曲であり、ライブでは観客とのシングアロングが定番となっている曲も選ばれている。それでも、クレジットを見なければどれが録音された声であったかといったことが気にかからないほどに、バンドと観客の熱量が肌で感じられるのだ。これはおそらく、その場にいた観客の表情や身振り、その場で出されたものではなくとも演奏とともに流されるものとして届けられた声、それらがライブパフォーマンスへのレスポンスとして成立したということの証左であろう。
 コミュニケーションは双方が行おうと思わなければ成立しない。逆に言えば、双方に意志があれば、手段が変わってもそれを乗り越えて行うことができる。おこがましいかもしれないが、それが成功した暁には、観客の心が沸き立たされるばかりではなく、バンド自体や演奏のテンションも上がっていくはずだ。
 発信したものが好意的に受け入れられ、ダイレクトな反応が起きる。それらが一体となって、時間や空間そのものがそれぞれにとって強烈な体験となる。会話のような直接的な方法ではないが、心を通わせられるものに出会うという体験。たった数時間、または曲の中のほんの一瞬であっても、そういったものが人生の中にあるということは、コミュニケーションを駆使する生き物、つまり人間らしく生きるということの根源に近いものがあるのではないだろうか。
 東京ドームのそれに限らず、その場に居合わせたくともできなかった人たちの思いものせて展開される熱いステージの記録。コミュニケーションという体験を得ることすら難しい時代に今作がリリースされたことは、ライブが単に音楽を聴く場であることにとどまらず、自分たちにとってどういうものであったか、改めて振り返る機会ももたらしてくれたのである。


 アルバムタイトルの「Live」は、読んで字のごとく「生きる」という意味だ。そして「Loud」は「騒がしい」「派手な」の他に「大きな声(音)で」という意味もある。つまり直訳すれば「大声で生きろ」となるだろうか。
 もちろん「ライブ」の音源を集めたアルバムだからという意味がこめられているのだろうが、それでも「Loud」になれない時代にこの言葉を掲げるのは、彼らが今までのライブで、発信し、受け取ってきたものを表しているように感じられる。ライブの中に巻き起こる熱を、音だけでもって聴き手の胸に沸き立たせられるということ。それは彼らの歩んできた30年の経験と音楽への愛の強さに裏打ちされてこそ成し得たことだろう。
 今は胸の内でだけでも、大きな声で歌っていたい。そしていつかまた、ライブという空間に浸りながら、その熱に身を任せたい。
 そんな希望を持ち続けていくことは、つまり人間らしく生きたいという欲求に他ならない。困難な時代や人生を歩んでいく中で忘れかけそうになるそれを、このアルバムはこれから何度でも思い起こさせてくれるに違いない。

【再録】太陽がかけた夏~RSR2015、「ABEDON+OT(from ユニコーン)」の記憶

 再録その4。2019年11月のもの。

 これは何というか、今までのどれより(どれもそうだけど)ブログでやれ的な内容であるような…。全部そうなんだけどこれはことに、わたしのほぼ真っ黒な色眼鏡を通した文章なので、その辺をご承知おきいただければ…。

 あの年は本当にフェスもライブもほっとんど行ってなかったのですが、そのうちの1本がこれて…。正直もう記憶が薄れるどころかほとんど彼方に飛んでってしまっているのですが、あの肩ポンだけはGIF動画のように脳裏に焼き付いています。音楽というツールもそうだけど、言葉なしに共有できるものがある関係ってすごい。そう思ったのでした。

 確かこの年に公式にライターさんの書いたレポというか記事が出てて、わたしもまだ記憶が薄れないうちに書いておきたいと思った覚えが。なお念のため述べておきますが、対抗したかったとかそういうのは一切ないです…恐れ多すぎる…。

 あのステージ、いつかフルで映像を見てみたいものなのだけど…円盤になったというだけで御の字も御の字すぎるか。でもこれを収録してくれた心意気に、勝手ながら感謝です。

 

 

※※※

 

 

 「RISING SUN OT FESTIVAL 2000-2019」、略称「RSOT」。2019年12月に発売される、ライジングサンロックフェスティバルにおける奥田民生の軌跡を振り返る映像作品だ。
 その発売がアナウンスされた時、真っ先に収録内容をチェックしてしまった。もしやあの場面がもう一度見られるのでは、そんな期待からだ。
 2015年、SUN STAGE、ABEDON+OT(from ユニコーン)。
 ラインナップにその文字列を認めた時、脳裏に鮮やかに…と言うにはあまりにもどんよりとした、夏だというのに寒々しささえ感じるあの日の空がよみがえった。
 数年がたってもなお心に焼き付いているあの体験を、映像を見る前に今ひとたび振り返ってみたい。

 

 うつろっていく日々の記憶の中で、その場面だけはいまだにありありと思い出せる。昼休みに何気なく開いたスマホの画面、はたしてその文字はそこに踊っていた。

 

ユニコーン川西幸一脳梗塞

ユニコーンのフェス出演はキャンセル」

 

 周囲に流れていたTVの笑い声や会話が、突然やけに遠く無慈悲に響く。比較的軽症である、そのたった数文字の情報に、命は取りとめているではないかと動かない頭で無理やり考える。けれど、その病気がその後の生活――ことに、ドラムのように手足をバラバラにリズム良く動かさなければならない、パワフルさと繊細な感覚が同時に要求される楽器の奏者へ及ぼす影響はいかばかりか。考えても仕方のないことがぐるぐると頭と胸の内を渦巻き、目の前が暗くなり、その場にうずくまってしまいそうだった。
 ああ、メンバーいち明るく元気なあの川西さんが、ドカドカと大きなバスドラムを打ち鳴らしながら華麗なスティックさばきを魅せる川西さんが、なぜ。
 フェス出演はキャンセル、それは仕方のないことに思えた。バンドの要であるドラマーがいないのだ、しかも解散前に脱退したのとは訳が違う。
 メンバー達もベテランであるゆえ代理のドラマーを立てたとしてもきっとうまくやるだろう、けれど彼らはそれを選ばなかった。
 その夏は個人的に忙しく、それでもユニコーンが出るからと、フェスの中でもライジングサンロックフェスティバルの2日目だけはチケットをとっていた。目当てのアーティストがキャンセルだとしても、チケットが手元にあるならば参加したい。そう思いながら眺めていたホームページに、ある日突然情報が追加された。

 

 「出演キャンセルとなったユニコーンに代わり、ABEDON+OT(from ユニコーン)の出演が決定しました」。

 

 目を疑い、何度も読み返した。ABEDON、と、OT?たった2人で出演するというのだろうか。
 この前年、ユニコーンはリリースしたアルバムと同名の「イーガジャケジョロ」をタイトルに掲げてツアーを行った。始まる前に阿部義晴ABEDONへと芸名の変更を発表し、それに伴い他のメンバーも違う名前をつけようという話が持ち上がり、奥田民生はソロでよく呼ばれている「OT」を衣装のツナギに背負って歌っていた。その名残のネーミングなのだろうが、果たして2人だけで一体何を演るというのだろうか。
 これはなんとしても目撃しないとならない、そう固く心に誓った。

 ライジングサンの開催前、別のフェスにも出演した"ABEDON+OT(from ユニコーン)"。参加した人たちの話を聞くと、どうやらその年にソロツアーを行っていたABEDONとそのバンドメンバー、THE RINGSIDEを加えた5人で演奏したということだった。THE RINGSIDEには元から奥田も参加しており、卓越したプレイヤーの揃った"バンド"によってユニコーンの曲も演奏されたようだ。
 なるほど、そういうことか。そりゃあたった2人の急ごしらえで、ユニコーンが出演するはずだったあの大きなステージに立つのは、いくらベテランであってもなかなか難しいはずだ。その年のABEDONのソロツアーには参加できなかったこともあり、北の大地の大舞台で観られることが楽しみになっていた。
 そう、そんな軽い思いでいたのだ、その時までは。

 

 日が傾きかけたライジングサンの会場は、早くも肌寒くなっていた。レインウェアの裾を引っ張り、時折膝を動かして暖をとりながら、ステージの前に並ぶ。両サイドには一つずつモニターがあり、ゴミの分別や注意事項などが代わる代わる映し出され、そして時折NEXT ARTISTの文字列が現れる。期待なのか不安なのか、なんだかわからない感情がやたらと胸を渦巻いて、自然と唇を噛みしめ、息を詰めてその時を待っていた。
 定刻、アーティスト名が大きくモニターに映し出される。歓声が上がる中、メンバー2人が出てきた。
 …2人?そう、たった2人。
 舞台の手前まで来た2人――ABEDONと奥田は、横に並んでおどけるように両手を挙げてみせる。そうして楽器のスタンバイを始めたABEDONはトレードマークのフライングVを抱え、奥田はドラムセットにつく。
 少しだけこちら側に体を開きながらも、ドラムに向かってABEDONが奏で始めたのは、それまで聴いた中で一番テンポの遅い、けれどあまりにも聴き慣れたフレーズだった。
 ありえない、その5文字だけが真っ白になった頭の中で点滅する。程なくして奥田がドラムを叩き始めた。これまた聴き慣れたリズムだ。彼らが再始動する前から耳にする機会が一番多かった、恐らく今でも彼らの大きな代名詞の一つである曲――「大迷惑」。
 「ちゃ~ちゃちゃっちゃん!」という歌声に目を向けると、ABEDONがオーケストラの音を口で歌っていた。それを合図に、普段この曲ではハンドマイクの奥田が、ドラムセットに取り付けられたマイクで歌い出す。「町のはずれで シュヴィドゥヴァー さりげなく」…周囲から歓声があがった。観衆はみな、おそらくこの時点でなんとなく気付いていた。これは掴みでワンフレーズだけ演ろうとしているのではない、フルで一曲演奏するつもりだ。それも、2人きりで。
 普段はキーボードで奏でているはずのフレーズをABEDONが歌いながらギターをかき鳴らす。お遊びのように見えて、どこまでも正確でツボを押さえたフレーズの選び方に息を飲む。「大迷惑」はバンドサウンドとオーケストラを融合させた曲で、2人だけでは到底奏できれない音がこれでもかと入っている。けれどその中でも「大迷惑」らしさを失わずに演奏するにはどのフレーズを歌えば良いか、本能的に理解し計算しながら歌っているように見え、可笑しさなどこれっぽっちも感じなかった。
 自然に拳が振り上がる。左右と背後からぎゅうと圧力を感じる。ああ、観なくてもわかる、聴衆がどんどんと増え、そして盛り上がっている。その事実にどうしようもなく胸が熱くなり涙がこぼれたものの、それでもサビに合わせて「だ!い!めいわく!」と叫んでいた。周囲とともに。
 普段はパワフルな歌唱を聴かせる奥田はといえば、後半になるにつれ顔が下を向き、歯を食いしばって眉根を寄せているように見えた。それもそのはずだ、日本のロックアーティストの中でも屈指であろう声量を活かしたこの曲は、きっと歌だけでもかなりの体力と肺活量が要る。それをほぼ一曲を通して左右の手足をフルに使うドラミングとともに歌うのだ、いくら彼であっても必死にならざるを得ないだろう。普段のライブやレコーディング風景では半ばふざけて苦しそうな顔をしてみせる奥田だが、ここでわざとそんな表情をしてみせるとは到底思えない。
 そしてABEDONは完全にオーディエンスに背を向けてドラムセットに向かい、身体でリズムをとりながら演奏していた。普段はそれこそ、ひとたびキーボードブースを出てギターボーカルに転じると、のびやかなシャウトとはじけたパフォーマンスで客席を盛り上げる。そんな彼があんなに長い間こちらに背中を見せていたのは、それこそ初めて観たかもしれない。
 「とぼけてる顔で実は がんばっている」とソロで奥田が綴った歌詞の如く、普段はそんなそぶりを特に見せない2人が、"必死さ"を隠さずに演奏していることが、ひどく新鮮で、なおかつ胸が詰まった。2人ががんばればがんばるほど、聴衆が盛り上がれば盛り上がるほど、不在がありありと感じられるのだ。ハードに響くギターが、美しいハイトーンのコーラスが、キーボードで奏でられる様々な音色が、のしのしと歩きながら聴衆を煽るボーカルが。そして、重厚なキックと弾けるようなシンバルで曲の中を疾走していくドラムが。
 「もうメンバーが3人いたらユニコーンを名乗っていいことにしよう」。再始動した2009年にメンバーはそううそぶいた。それはおそらく、"バンドで居なければならない"ことがストレスフルであった解散前の状況をふまえ、冗談でありながらもいい意味で「無理はしない、バンド活動にとらわれ過ぎない」という宣言でもあったのだろう。

 けれどというかやはりというか、メンバーが1人でも欠けては(演奏はできるが)"ユニコーン"は成り立たない。恐らく発言元であるメンバーが一番わかっていたこの事実を、身をもって知らされたような気がした。
 ただ、この時のABEDONと奥田の演奏は、それを補っても余りあるくらい、2人で演っているとは思えないほどの迫力が感じられた。それはもちろん、普段はとぼけた顔の下に隠している2人の気迫が、そしてミュージシャンとしての経験と実力が、ステージの上であらわになったからであろう。
 それに応えて"この場を、音楽を、楽しみたい"という思いが共有されたからこそ、聴衆は盛り上がっていたのだ。その圧倒的なパワーに、感服するほかなかった。
 遂に演奏が終わり、観客は惜しみない拍手と歓声を2人に送る。ドラムセットからよろよろと出てきた奥田がABEDONの肩に両手をもたせかける。ABEDONが労うかのように奥田の背中をポンと叩き、それ以上何も言わず2人はめいめいに次のスタンバイを始めた。その、演奏とは一転して一見クールともとれる光景に、さらに胸が熱くなった。
 文字や言葉で事情を説明し謝ることならいくらだってできる。他のバンドメンバーは「大迷惑」の後からステージに出てきていたが、最初から全員で演奏することだってできなくはなかったはずだ(実際、その後フルメンバーにより、ユニコーンの曲の中から『WAO!』と『服部』が演奏された)。
 けれどそうはせず、たとえ足りない部分があったとしても、初っ端を自分たちの代表曲のうち盛り上がるナンバーで、なおかつ「from ユニコーン」のメンバーだけで演奏する。それが彼らなりの、今回のキャンセルに対する落とし前の付け方であったように感じたのだ。
 どこまで格好いいのだろう、この大人たちは。すっかり冷えてきた夕方の風に上気した頬を撫でられながら、いつのまにか握っていた拳が痛むのを感じていた。
 

 それから数ヶ月後、川西幸一はEBIの50歳記念イベントで見事復活を果たした。そのステージ、そしてその翌年のツアーではドラムセット脇にウォーターサーバーが設置され、あまつさえ会場にはコラボしたサーバーの企業ブースが出来ていた。ここまで自分たちをパロディ化するのか、と毎度のことながら驚いた記憶がある。しかしやはり彼の不在はバンドにとって大きいことだったのだろう、ライブ中に川西に水を飲むよう促すメンバーの表情は、心なしかいつも冗談を言い合っている時よりも真剣に見えた。
 ロックが日本で浸透してから数十年が経ち、結成やデビューなどから30~40周年を迎えるアーティストもここ数年増えている。それだけ長い間活動を続けていれば、予防線をいくら張ったとしてもアクシデントが起きないわけはない。アーティストのみならず、生きていればそんな課題がいくつも出現するが、そこにどう対処するか、そこにこそ人間性が表れるというものだろう。
 2015年、"らしさ"を失わず、自分たちの活動の核である音楽をもって聴衆に返した彼ら。青い炎のような静かな情熱が、スタッフやオーディエンスに対してだけではなく音楽そのものに対する誠意が、彼らにしては珍しく、限りなくダイレクトに伝わってきたあのステージは、本当に見事と言うほかなかった。
 それを映像で追体験できるのが今から楽しみだが、それと同時に少しだけ背筋が伸びる。さて、あれから4年たって、自分はあの時の彼らのように、向き合うべきものに真真剣に向き合うことができているだろうか?
 (…そんな堅苦しいこと考えずに楽しんでよ、音楽なんだからさ)

 などと、肩肘を張っていると、苦笑する誰かたちの声が聞こえてくるようでもあり、心の中で握りしめていた拳がゆるむような気になる。あの時、頰を撫でていった北の地に吹く風のように、ふんわりと。

【再録】「この恋のかけら」のゆくえ~THE YELLOW MONKEY アルバム「9999」のはじまりのうた

 大変お久しぶりです………。

 すっかり忘れていた、訳では全くないのですが、やっと重たすぎる腰が数ミリだけ持ち上がったので再録です。2019年5月に載せていただいた分。

 THE YELLOW MONKEYの音楽に触れ始めた頃、ああ、かっこいいけれど、このひと達のライブに行くことも新曲を聴くこともできないんだなあ…とぼんやり思っていたわたしにとって、2016年の再集結、そして2019年のアルバム「9999」のリリースは本当に雷に打たれたみたいな出来事でした。

 特にリリース前の全曲試聴会で聴いたこの一曲目が、武道館に鳴り響く繊細なギターの一音が、どうにもこうにも心から抜けなくなったのでした。それにより思うさま綴った文章、というか勝手かつ偉そうな解釈…ですが一応記録として…。

 というか今考えてもリリース前のアルバム全曲再現(?)ライブとかあり得なくないか。終わった直後に合流したお友達とウワ~!!と興奮してハグした記憶が…懐かしい。

 楽しかったなあ、2019年。ライブだけでなくお友達と会ったりしゃべったり、おいしいものを食べたり、多分今のところ人生で一番みっちみちに充実した一年でした。仕事もアレだったから、戻りたいかと言われればうーん、なんですが…。

 楽しいも嬉しいも苦しいも、多分わたしの人生で一番、たくさんの「恋のかけら(って書くと別の曲になってしまうw)」が胸にささった一年だったなあと思います。そういう痛みをリアルに感じることこそ、生きている…というか、生きなきゃと思っているという証拠なのかもしれないと、だいぶ麻痺してしまった最近になって思います。もちろん、感じすぎても生きていけないから、あえて麻痺させるという生存戦略もあるけどね。

 

 

※※※

 

 

 自分の力が及ばない事柄に、なすすべもなく立ちすくんだことはあるだろうか。
 時の流れ、自然の力、誰かの心の機敏、エトセトラ。どうにかしたい、あるいはなってほしい、けれど、どうしようもないこと。
 それに気づいたとき、人は、はたと歩みを止める。さて、どちらの方向へ歩みを進めればよいのか。
 そもそも、このまま歩くこと自体が、正解なのだろうか、と。

 

 THE YELLOW MONKEYのアルバム「9999」は、「この恋のかけら」という曲で幕を開ける。
 無音だった空間に、高い空を旋回する鳥の鳴き声のように、はたまた遠くから聞こえる懐かしい呼び声のように、情感をもって響くギター。
 それに誘われてふと振り返って空を仰いだような心持ちでいると、あたたかな音のドラムとベースが、優しくも確かに歩みを進めるようにリズムを刻み始める。
 ああ、ついにアルバムが始まる。彼らが再集結して初めて出すアルバム、その瞬間に響く歌詞がこれだ。

 「錆びついたエンドロールが流れていく またひとつ僕たちの映画が終わる」

 そう、一曲目にして“終わり”が告げられるのである。
 悠々と流れていくメロディに、映画のハイライトをバックに流れていく演者やスタッフの名前をぼんやりと眺めているような感覚をおぼえる。そこはかとない寂寥感と、物語の世界から抜けて現実と対峙しなければならない時が刻々と迫っているという静かな絶望感。どこまでも穏やかな曲調が、逆にその感情を際立たせるようで、余計に胸が締め付けられる。
 このエンドロールが流れきってしまったら、その先は一体、どうなるというのだろう。

 

 タイトルである「この恋のかけら」は、曲の中ではともすればやっかいなものの象徴ともとれる。
 一度刺さってしまったら抜けない、抜いてどこかに埋めてしまいたいのにそうはできないもの。アンデルセンの童話のように、誰かの涙ですうっと溶け去ってしまうようなこともきっとないであろうもの。
 その中身は、父親と母の話、君の言葉といったワードでつづられているが、つまりはいい意味でも悪い意味でも心をひどく震わされた“何か”なのだろう。
 通常の“恋”であれば、やわらかくあたたかく花が咲くような、心に留め置きたいもののように語られる。けれどこれは「かけら」だ。断片的で、小さくもなりえるが、その分、鋭利さを増して余計に心から離れず、刺さった部分を傷つける可能性だってある。
 時に任せてもそれが抜け落ちることはなく、ついには自力でどこかに埋めるか仕舞うか、することにする。けれど、歩き回って探しても、時期によって「人だかりができる」「行き止まりになる」場所ばかりで、埋めることが躊躇される。
 そうして立ちすくむ。「この恋のかけら どこに埋めればいいのだろう」と。
 それまで気づかないふりでいた、そもそも埋めるのに適した場所などあるのだろうか、という疑問とともに。

 

 歩みを進める目的を見失って、立ちすくんでしまうということ。それもきっと一つの“物語の終わり”だ。
 けれど、それに反して、音は確かに盛り上がりを見せていく。大木の幹のような確かな佇まいのドラム、そこから伸びる枝のようにリズムを彩るベース、その周りに蔦が絡まっていくようにするすると上昇していくギター。
 いよいよエンドロールも佳境か、というところで歌われるのは「ダメ元で やってみよう」という、それまでには出てこなかった前向きな言葉だ。
 そして繰り返される、「冬になるとこの辺りは雪深くなるから これより先は行き止まりになる」という歌詞。けれどにわかに明るくなった曲調と先ほどの言葉の前では、その事実は絶望的には響かない。いや、もちろん、ここにも埋められない、という事実への多少の落胆はある。しかし、だからと言って苦悩するのではなく、しばし立ちすくんでから、仕方ないな、とまた別の場所へ歩みを進めていく…そんな、どこか前向きな諦観を持っていることが感じられる。
 やっかいなものを抱えたままでエンドロールが流れきり、物語が一つ終わってしまっても、またそこから(新たに、ではないかもしれないが)歩みを進められる。そんなほのかにビターなポジティブさをもって、アルバムの1曲目は終わっていくのである。

 

 ところでこの曲の風景にはどこか、秋の風が感じられる。
 それは歌詞の中に「春になると」「冬になると」というワードがあるからでもあるだろうし(つまり今はその季節ではないということだ)、彼らが以前歌っていた「くちびるが躍る」ような、はたまた「太陽がギラギラと燃えている」ような季節は、心に刺さったものの仕舞い場所を探して歩くには、少々厳しいものがあるだろう。
 ではどうして、秋なのだろうか。
 それはおそらくだが、現在のバンドの心象風景が多少なりとも描かれているから、かもしれない。
 寿命が80~90年である人の一生を一年とし、4つの季節を当てはめてみる。すると、秋に当たるのは、40~60代の、いわゆる壮年期。つまり、現在のTHE YELLOW MONKEYのメンバーの年齢にあたる。
 秋は実りの季節であり、それまでの人生から結実したものができたり、それを他者に分け与えることもできる。そしてそれと同時に、余分な葉を落とし、シンプルな姿に近づいていく季節でもある(曲中で歌われるマトリョーシカとは、逆の様相を呈するように)。
 先に挙げた、この曲の中ではポジティブな言葉の後に続くのは「残された 時間は 長くはないぜ」というフレーズだ。それだけ抜き出すと、胸がドキリとするような言葉。しかし、それがなぜか悲壮感をもって響かないのは、おそらく彼らが、自分たちの季節が“秋”であることを知っていて、それにあらがわず、自然の流れに沿ってその季節を歩んでいるからだ。
 冬が来れば(もちろん、人生の季節が“冬”だということは全く悪いことではないし、自然の流れなのではあるが)、辺りは雪深くなり、何かを埋めるには雪を掘り起こさなければならないし、目印もないからどこに埋めたかわからなくなることもある(おそらくだが、人だかりができる場所や雪深い場所に埋めたくないのは、埋めてしまった後でもふとしたときにその場所に戻って、埋めてしまったかけらに思いを馳せたい気持ちもあるからではないだろうか)。
 そんな季節が今自分たちがいる季節の次に来ることを、きっと彼らは知っている。しかし、だからと言って絶望したり焦ったりするでもなく、その事実をただ静かに見つめている。
 そしてなおかつ、もしかしたら「この恋のかけら」を埋められる場所が見つからず、冬になっても抱えたままでいる可能性(そしてもしかしたら、その可能性の方が高いかもしれないこと)にも気づいているのではないだろうか。
 そこから導き出された、それでも「ダメ元で やってみよう」という意気。その前につく「さぁ」という呼びかけの言葉が、その道のりがきっと、孤独ではないことをほんのりと示唆する。
 自分たちの中にある「恋のかけら」と、それがもたらす痛みを自覚し、抱えながらも、秋という季節を歩いていく。そういえば、彼らも昔、秋を「コスモスが恋する」季節、と歌っていた。人生の中でいえば春や夏だった時期とは、言葉の意味やとらえ方も違ってくるのかもしれないが、“恋”が、何かに焦がれたり、心を震わせるような感情だとするならば、人生のどの時期においても触れることがあるはずだ。「ギリギリの」ゲ
ームに狂うようなそれも、「荒れた海のような」それも、「ハマりまくって抜け出せない」それも。
 だとしたら、「恋のかけら」が刺さってしまうことも、きっと人生のいつにも、何度でも、起こり得る。「ダメ」だった、つまり、最期まで大なり小なりのそれを抱えたままでいる、という可能性もある。
 そうだったとしても、それはそれで、仕方のないことだ。
 やってみた、その結果であるならば、きっとポジティブな意味で、仕方ない、と受け入れることができるのではないだろうか。


 「長い足跡に滴り落ちる この恋のかけら どこに埋めればいいのだろう」と、最後に足元を見てひとりごちるように歌が終わる。
 去っていく背中が遠ざかるように、徐々に減っていく音たち。最後にはイントロと同じようにギターの音だけが残り、木の葉が風に飛ばされるように、ふっと消える。一抹の寂寥感を残すそれが、この曲の終わりだ。
 長い足跡がつくのは足を引きずっているためなのだろうか。だとしたら、アウトロの点々としたギターの音のように、そこに滴り落ちるものとは、ともすれば…と、明言されていない部分に思いを馳せてしまうような、胸が小さく締め付けられるラストシーン。
 それでもどこか、ほんのりとしたあたたかさを感じるのは、この曲がどこまでも静かな、けれど確かなグルーヴをもって演奏されているからだろう。すなわち、一度立ち止まっていた彼らが今、自分たちの持って(抱えて)いるものを再確認し、共有し、また共に歩み始めている――新しい曲やアルバムを作り、バンドとして歩みを進め始
めているということだ。

 

 先のことはわからない。抱えたものは抱えたままかもしれない。けれど、だからこそ、冬に向かって(迎える、のではなく)歩みを進めていく。そんな静かな覚悟が、この曲からはにじみ出ているように思える。
 そんなエンドロールの終わりは、新たな物語の幕開け。斬新だが、とても人間的で、彼ららしい、“アルバム”の最初の一ページだ。

【再録】耳からしみこむ、その名は~ユニコーン「OH!MY RADIO」によせて

 「音楽文」からの再録2本目。

 2018年7月11日に掲載していただいて、8月の月間賞(入賞)をいただきました。

 入賞のお知らせをいただいたのが心身ともにどん底な時だったので、「お、おう…」となったのだった(苦笑)。

 これは単純に「OH!MY RADIO」という曲、そしてMVにものすごく感動して、みんな聴いてくれ…!という気持ちで書いた記憶が。

 そしてアベドン・ビッチコック監督の、CDを手に取ってもらうための工夫やアイデアも知ってくれ…と思ってた…(わたしには何ができるでもないけど)。

 あの曲を聴いて何に一番驚いたかって、あの怒濤のように忙しかったであろう2009年に担当していたラジオ番組のタイトルを民生さんが覚えていたことだった。印象深かったのかなあ。深夜で大変そうだったけど楽しそうだったもんね…。EBIさんのシャンプーは今もLUXなんでしょうか。

 あと、あのラジオ局の名前の中に「あべ」を見出してたのってこの頃だったっけ…w

 

 文章のタイトルを考えるのがものすごく苦手なのだけど、投稿の規定に必ず副題もつけることというのがあったので、毎回かなり悩んだ記憶。何をどう転んでも厨二感漂っちゃうんだもん…。今回のは主題をひねりだしてすぐにもう無理です!ってなった形跡が副題に垣間見える。

 タイトルの、その名は「音楽」であり「魔法」であり…きっと人によって違うんだろうなあと。

 前回掲載された時、web上の文字になったときの読みづらさにびっくりして、文章も音楽雑誌っぽさに寄せたつもりだったんじゃなかったかな。

 でもあの雰囲気は出せない。どうしてもオタク特有の情報量の多さとしかめつらしく説明しがちな文章で埋めてしまう。まあこれがうちの出汁なので…

 

 

※※※←よく考えたら「米米米」だなコレ

 

 

 ラジオから聴こえてきた音楽に、ふと心をわしづかみにされたことがあるだろうか。  

 仕事中に、街を歩いている時に、夜中に机に向かっている時に。

 ふとスピーカーから流れてきたリズムに心惹かれて、つい手や足が止まる。

 そして曲が終わりそうな気配を示した時、ぐっと集中して耳を傾け、DJが読み上げる曲名とアーティスト名を心にメモする。

 そうして偶然出会った音楽が一生の伴侶となることも、きっと少なくはないはずだ。

 

 ユニコーンの新曲「OH! MY RADIO」。

 ラジオ局の周年を祝うテーマソングらしく、それが初めて解禁されたのもラジオからだった。

 昔のラジオは大体曲をフルで流してくれたから、カセットに録音して繰り返し聴いていたんだ。そんな話をしながら、メンバーが曲紹介を行う。

 そして流れ始めた音に、耳と心が一気に掴まれ、引き込まれた。

 最初に聴こえてくるのは牧歌的な鳩時計の音。それを塗り替えるようなギターを合図に始まる、力強く厚みのあるバンドサウンド

 そこに重なるのは、奥田民生ABEDONツインボーカルだ。

 自分がファンだからこそ、新曲が流れるとの情報を事前に得てラジオをつけて待機していた。

 けれど、もしファンじゃなかったとしても、意図的ではなく部屋や街中などで流されているラジオから聴こえてきたものだったとしても、きっとこの曲には心を掴まれていただろう。

 そう思うくらい、文句なくカッコいい。

 彼ららしい、けれどどこか今までとは違う新しさを持つ曲に、胸が大きく高鳴った。

 「右向いて 左向いて」という歌詞に呼応するように、右左のスピーカーから流れてくる歌声。

 明日と昨日、右脳と左脳など、対となるワードが散りばめられた歌詞だが、その後には必ずそれらが"ひとつになる、ひとつである"という趣旨の言葉が置かれている。

 明日と昨日、人の数と雲の流れ(つまり人工物と自然とでも言おうか)。

 それらを全部詰め込んで「ひとつの物語」になったものが右左のスピーカーから流される。

 すると目を閉じていても開けていても、音が届く範囲にいれば、それが耳に届くのだ。

 耳は他の感覚器とは違い、手を使わなければ意図的に感覚をシャットアウトできない。

 そうして意識していなくとも耳へ入り込んでくる感覚は「しみ込んでいく」、逆に意識してスピーカーに耳を傾けることは「吸い込んでいく」という表現にぴったりくる。

 この曲はきっと、彼らが音楽に触れ始めた頃からそのきっかけの一つを作ってくれたラジオへの讃歌なのだろう。

 「もう さすがに まわりに左右されないが」「すぐには まわりにダマされないが」と高らかに歌い上げるツインボーカル

 人は歳を重ねるごとに、人生の経験値(それがどんなものであれ)が自然に上がっていく。

 けれど、だからこそ、新しいものと出会う機会が減ったり、その感動への感度が下がってしまうこともあるだろう。

 歌は「今夜も 魔法にダマされている」「音や声に 左右されたいな」「ダマされていたいや」と続く。

 メンバー全員が50代を迎え、それでもなおラジオひいてはそこから流れる音楽、また乱暴に総じれば"新しいもの"に対して、彼らも心を左右させられる瞬間があるのだろう
か。

 発売から数日後に動画サイトで公開されたこの曲のMVには、そんな疑問へのヒントが隠されているような気がする。

 モノクロの画面の中で、再始動後からずっとお揃い衣装だったツナギではなく、「限りなくイケメン(!?)」と自ら銘打ったスーツ姿で演奏する5人。

 渋さをまとった彼らの映像は普通に見るだけでも楽しめるが、そこは遊び心を忘れないユニコーン。なんと、鏡のような加工が施された三面のCDケースを見開いて三角形に
構え、それを画面に向けて見ると、MVが万華鏡のようになるのだ。

 鏡の中に対称に映っては消えていくメンバーたち。

 曲の中で、ここはギター、ここはドラム、ベース、キーボード、歌…と、それぞれのパートが映える部分もクローズアップされている。

 曲にのせてそれを見ていると、さながら自分も「ダマされている」…つまり彼らの音楽に、より引き込まれていくような感覚におちいるのだ。

 動画のようなデジタルなものとCDケースというアナログなもの、それらをひとつの作品の中で掛け合わせる。

 それは曲で歌われていることと同様に、対になるものを合わせて、受け取り手の新しい世界の扉を開く挑戦のようだ。

 また、その根幹となるのがあくまで音楽であることが、バンドである彼らの矜持なのだろう。

 彼ら自身がそんなプロセスに心を震わせているかどうかはわからない。

 しかし、ある程度の経験を積み地位を築いても、それに居座ることなく新たなステージへと足を伸ばそうとすること。それはきっと、積んだ経験が多ければ多いほど足が重くなるものだ。

 それを軽やかに…いや、そう見えるようにやってのける理由が、彼らの音楽を吸い込んだ誰かが、そして彼ら自身もが、より「ダマされ」るようなものを作り出すためだとしたら。

 その挑戦を続けている限り、きっと心が大きく震わされる瞬間は訪れるはずだ。

 少年の頃、ラジオの前で耳をすませた彼らが、そこへ流れてくるものから感じたものと同じように。


 「ダマされていたいや」という歌と、力強い響きを持った演奏のまま、曲は終わる。

 そこにはがむしゃらな勢いや切実な叫びというよりは、再始動してまもなく10年を迎える彼らが、その時間の中で構築してきた圧倒的なグルーヴ、そしていくばくかの余裕を感じる。

 耳から入ってくる情報には形がなく、さながら万華鏡の中に映る模様のように刹那的なものだ。

 だから確かに、それに夢中になることは「ダマされている」ようなものとも言
えるだろう。

 しかし、それでもそんな時間が、受け取り手の人生を少しでも豊かに、彩りのあるものにするものだとしたら。

 それはきっと"嘘"や"虚構"ではなく「魔法」と呼べるものであるはずだ。

 昔、ラジオなどを通して魔法にかけられ、音楽を志した彼らが、今は誰かに耳から魔法をかけていく。

 その足跡を追いかけながら、これからもユニコーンが生み出す音楽という魔法の中にずっと揺蕩っていたい。

 そんな思いを抱くのも、もうすっかり彼らの魔法にダマされてしまっているから、なのかもしれない。

【再録】この先もきっと、パラダイス~ユニコーン「D3P. UC」が示す、楽園のありかについて

 突然ですが再録です。

 実はわたくし、ロッキング・オンさんが運営していた「音楽文」というサイトに何度か投稿していたのですが、2022年3月いっぱいでそのサイトが閉鎖になったそうで…。

 今さら載っけてどうこうというのでもないのですが、まあ、ちょっとした記録ということで再掲します(許可はいただいています)。

 最近ブログもほったらかしどころじゃなかったので…いやちょっとまとまった文章を書く熱量と体力がね…(ただしツイートの長いのみたいな散文ならいくらでも書ける。呼吸とか排泄みたいなものなので)。

 とりあえず、投稿した文をひとつずつあげてみようかと。飽きない限り…(飽きるな)。

 

 一番最初に投稿したのが今回再録した文章です。

 掲載していただいたのが2017年9月11日。

 「D3P.UC」発売の時に試写会やってたんだよね…!懐かしい。大きなスクリーンで見るあの映像、よかったなあ。

 今だから言いますが、あの作品は発売当時SNSでちらほらとなんやかんや言われていたんですよね。その…ライブ映像だけで売ってほしかったとか。

 わたしは勝手ながらそれがめちゃくちゃ悔しくて、いやわかる、わかるけど、こんなにいい作品なのに…!とモヤつきまして…。

 一矢報いたい、個人にではなく世界に、という厨二な考えのもとこの媒体に投稿するため文を書くことにしたのでした。

 例えば自分のアカウントでお気持ちツイートを重ねてもいいんだけど、それは違うくない?

 こんなに素敵な作品なんだから、受け取ったものを良い意味で昇華させたくない?

 それに「わたし」という明らかに偏った目線のファンが書いたものというフィルターのない状態で、どうですか?って言いたくない?

 とか考えて書いていたような。

 それこそ空に向かって矢を射るようなイメージだった、当時…。痛いな…(ちなみにイオマンテとか知らなかったんだけども…)。

 掲載には審査があると規約に書いてあったので、載せてもらえたと言うことはまあ公序良俗にも反してないと判断されたのかな…とほっとした記憶。

 あと告知ツイートの引用リプとかで褒めてもらえてたのがものすごく嬉しかったなあ。威勢の良いことを考えておいてその実、受け入れられるのかすごい不安だったので…w その辺全部スクショして時々見返してた思い出が。

 

 今考えれば、個人の欲望(これが欲しいという気持ち)と作品自体の評価がごっちゃにされてる感じというか…これじゃなくてああいうのが欲しかったとか言われていたのが悔しかったのかもしれない。

 わかるけど、この作品はこの作品として評価(良いでも悪いでも)しようよ、みたいな…ただそれもその人の気持ちではあるから否定はしないけど、という。

 結局何か寄与した訳ではないと思うんですが(恐れ多すぎるしもともとそのつもりもない)、多分ご迷惑もかけてない…はず。

 まあ、若気の至りということでひとつ。

 なお、文章が大分長ったらしくて読みづらいですが、読まなくていいです(ええ…)。

 途中注釈をひとつ入れたのと(この文は入れなければよかったと反省しているのであえてそのままにしてあります)、改行をいじった他は、投稿した当時のままの文章です。

 それでは以下より。

 

※※※

 

 ライブは、言うなれば「パラダイス」だ。

 音楽が迫力のある生演奏で鳴り響き、メンバーのパフォーマンスに心動かされる。大好きな音楽を、耳だけでなく全身で体感できる。

 携帯電話の電源を落として入り込むそこは、ある意味「現実」とは切り離された空間だ。

 観客は、ほんの数時間だけではあるけれど、現実を忘れて夢のような空間に身をゆだねることができる。

 ユニコーンのライブは特に、音楽はもちろん、随所にそれを引き立たせる仕掛け――照明や映像、舞台美術、衣装、小道具などがふんだんに盛り込まれ、観ている者を飽きさせない。

 そればかりか、同じツアーの中でもそれらがどんどん変化を遂げていくため、2回、3回と繰り返し足を運びたくなる。

 彼らの作り出す楽園に引き込まれていくのだ。

 そんな彼らが2016年に行ったツアー「第三パラダイス」を映像作品としてまとめた「D3P.UC」。

 発売前に映画館で上映されるという情報に、心が躍った。

 映画館の大きなスクリーンとスピーカーで鑑賞すれば、ライブのあの空間――すなわち、パラダイスを追体験できるというものだろう。

 しかし、その期待は、予想もしなかった形で鮮やかに裏切られることとなる。

 最初にスクリーンに映し出されたのは、ライブ中のメンバーの様子が収められた写真だ。

 次々に映し出されるライブの名場面が外国の道路を模した舞台セットに切り替わり、そこにメンバーが現れる。

 ツアーでも冒頭から盛り上がりを見せた2曲「サンバ deトゥナイト」「すばやくなりたい」のスピード感ある映像が流れ、ジャケットにも使用されたタイトルロゴが、どんと映し出される。

 パラダイスに戻ってきた!映画館のシートに身をうずめながらも、心がワクワクと飛び跳ねる。次はライブでもおなじみの、あの曲だろうか?

 しかし――直後に映し出されたのは、「おはようございまーす」と私服姿とゆるやかな笑顔で会場に入っていくメンバーの姿だった。

 「サンバ deトゥナイト」でメンバー全員が頭に装着する吹き戻し(空気を入れるとピューッと伸びる“アレ”だ)。

 それを曲中のどのタイミングでピューッと吹くのか?というディスカッションが、本番前の楽屋でえんえんと、かつ、ゆるゆると行われる。

 そして映像はさらに遡り、そもそもどうしてライブの初っ端からそんなおもちゃを頭に装着することとなったのか?という疑問に答えるようなスタジオリハの映像が続く。

 ライブの真っ最中に客席の電気がすべて点灯されてしまったような、着ぐるみのキャラクターが突然被り物を取ってしまったかのような――突如として夢の空間から現実に引き戻されてしまった感覚。

 だが、それでも映像から目を離せない。

 圧巻の迫力をもった演奏を見せるバンドのライブ映像と、ゆるやかに旅を続ける合計年齢262歳のおっさん達の舞台裏。

 交互に映し出されているそれに、戸惑いを覚えるどころか、むしろ静かな興奮をもって引き込まれていくのは、なぜなのだろうか。

 彼らの再始動以後の作品には、必ずと言っていいほどメイキング映像が収められたDVDが特典として付属している。

 それらはあくまで特典であり、楽曲やライブ映像、すなわち本編とは別物として位置付けられていた、はずだ。

 しかし「D3P.UC」では、ライブ映像の合間、あまつさえ曲の途中にまで、いわゆるメイキング映像が挟み込まれているのである。

 時間軸を行きつ戻りつしながら流れる、楽屋や移動中のメンバーの映像。

 それだけでなく、舞台セットが作り上げられていく様子や、グッズが販売されている場面、会場にぞろぞろと観客たちが吸い込まれていく場面など、一見してライブ本編とはあまり関係のない、むしろ「現実」に近い部分が、ライブ映像と同じくらいのボリュームでクローズアップされている。

 それが、従来のライブビデオとは一線を画す部分だ。

 ただ、そこには法則性がないわけではない。

 ライブの映像は本編の曲順通りに進んでいくし、それに伴って各地を移動していく映像も随所に挟まれる。

 曲の前後や合間に入るのは、その曲をライブでどうパフォーマンスするかといったメイキング――楽器を購入したり、間奏での振り付けを考えたり、衣装や小道具を試行したりといった場面だ。

 また、メンバーだけでなく、スタッフが時に真剣に時に和やかにそれぞれの仕事をこなしているところや、全員が一堂に会しての打ち上げの様子も随所に盛り込まれている。

 まるで、手品の合間にタネを事細かに明かししていくような作り。

 だが、夢の後ろにある現実を目の当たりにさせられても、なお続きが気になり、食い入るようにスクリーンを見つめてしまう。

 それはおそらく、その明かされたタネを知ることで、逆にライブ本編へ、そしてこのツアーへの思い入れが増幅していくからだ。
あの時メンバーやスタッフが寄り集まって考え、話していたことが、本番に活かされる。

 こういった過程を踏んだから、ライブの本編や映像がこうなっている。

 一つ一つに事細かな説明はないものの、そんな彼らの思考と行動の過程が、その後に流れるライブ映像とリンクする。

 笑いで混ぜっ返しつつも不安げに準備や練習を重ねる姿には、結果を知っているにもかかわらず手に汗を握る。

 そしてその結果、作り上げられたパフォーマンスに観客が沸く。

 安堵したり喜んでハイタッチを交わしたりする彼らの表情に、大きく心を動かされるのだ――まるで自分が、スクリーンの向こうの彼らと一緒にツアーを回っているクルーであるかのように。

 恥ずかしながら観るまで誤解していたのだが、今回の作品はツアーを追った「ドキュメント」「ロードムービー」と公言されており、いわゆるライブビデオとは違う位置づけの作品であるようだ。

 確かに、ユニコーンの映像作品には必ず表記されていた「MOVIE ○○」(○○の部分には、リリースされた順に数字が入る)という通し番号がついていない。*1

 しかし、上記の謳い文句の通り、ユニコーンというバンドの「今」を記録した、良質のロードムービーであることは間違いないだろう。

 本編後に流れたメンバーのトークの中で、総監督を務めたABEDONは「元々はライブとドキュメンタリーの2枚組にするつもりだったが予算の関係上こうなった、分けて編集したものを1枚に収めるのにさらに数か月かかった」と話している。

 その苦労は計り知れないが、それでもこのような、ライブとドキュメンタリーを融合しても散漫にならず、むしろバンドの魅力を増幅させて伝えられるような作品を作れるのは、ユニコーンというバンドだからこそ成し得たことなのだ。

 通常のドキュメンタリー作品であれば、真剣に、時に葛藤しつつも緻密に試行錯誤を重ねるメンバーの姿や内面に迫るような作りにするかもしれない。

 また、そのような裏側をひけらかすと夢を壊すとして、あえて語らず、それこそ「パラダイス」つまり「人を楽しませる楽園」という側面だけを打ち出す向きもあるだろう。

 しかしこの作品は、そのどちらでもない。

 それが表でも裏であっても、笑いやユーモアにあふれ、メンバーやスタッフが分け隔てなく、楽しみながらツアーを構築している様子が描かれている。

 もちろん常に笑顔だからといって、決して彼らが全力を出していない、真剣でないというわけではない。

 むしろその逆であり、それぞれがライブや映像に対する真摯な思いや高度な技術とセンスを持ち合わせていることが垣間見える。

 そしてそれが合わさった時のグルーヴたるや、すさまじいものがある(これは、同時発売のライブ盤『D3P.UCLIVE CD』を聴くと、より鮮明に感じられる)。

 しかし、決してそれをひけらかすことはせず、笑いで包んで、いとも簡単にひょうひょうとやってのけているように見せているのだ。

 だからこそ、観ていて楽しい。

 それでいて、彼らの裏にある思いや奮闘ぶりがじわじわと伝わり、興味をそそられ、惹かれていく。

 音楽の役割は娯楽、と以前、某CDショップのポスターで奥田民生は語っていたが、裏側をここまで見せても、娯楽、すなわち人を楽しませるものたり得るバンドは稀有ではないだろうか。

 さらに今回は、メンバーであるABEDONが監督となり、彼自身が指揮したり、回したりするカメラの映像が増えたことで、従来までのメイキング映像よりも主観的で、より内部の目線に近い作りとなった印象がある。

 EBIはABEDONの撮影・編集作業について「この映像はいる、いらないの判断が早く、的確だった」と話していた。

 メンバーから見ても、単に面白い素材を抽出してつないでいるのではなく、ユニコーンというバンド、また今回のツアーにおける「肝」の部分を抑えた作りになっているのだろう。

 確かに、観客の目からも、ライブにおいて盛り上がりを見せた場面や曲については(編集のしかたや収録時間に差はあれど)ほとんど余すところなく収録されていたように思う。

 自分たちが楽しんでいるだけのように見せていても、観客のツボとなる部分を把握し、盛り上げるべき部分をきっちりと抑えていたということの証だ。

 そんな冷静さとは裏腹に、ユニコーンのリーダーである彼の目を通して今回のツアーの過程を垣間見ていると、今回のツアー、そしてユニコーンというバンド、ひいては彼らを取り巻くクルーに対する愛着すら沸いてくる。

 それはきっと、作った本人がそのような目線でこのバンドのことを見ているからとも言えるだろう。

 エンディングに使われているのは「風と太陽」。ライブの本編でも最後に演奏されていた曲だ。

 その音源をバックに、ツアーファイナルを迎えた彼らのすがすがしい笑顔と、それまで差し込まれていなかった場面(ことに、パロディがふんだんに盛り込まれ、権利の関係上フルでは収録することができなかったであろうアンコールの映像など)が流れていく。

 そして、ダァン、と最後の一音を合図に、舞台からメンバーの姿だけが消える。

 オープニングでも現れた、メンバーだけがいない舞台の映像。

 しかしこれがツアー、そしてこの作品の終焉を表現しているようで、寂しくもあり、しかしなぜか充実感で心が温かくなる。

 自分が参加しなかった公演も含めて映像で追体験できたこともあり、ああ、表も裏も全部ひっくるめて楽しいツアーだった!という気持ちが胸を満たすのだ。

 それはメンバーも同じようで、この作品については「いい思い出ができました」「記念になった」と口々に語っていた。

 当人たちにとっても、公に再始動して7年がたったこの年のツアーは、一つのバンドの到達点と言ってもいいような、手ごたえと充実感を抱くものだったのであろう。
それをメンバーの手によって作品として残すことの意義は、きっとそこにもあったはずだ。

 また手島いさむは「若いバンドマンに見せたい」とも語っていたが、バンドマンに限らず、そしてこのバンドのファンでなくとも、彼らより下の世代の人々にとって見る価値のあるものではないかと思う。

 この楽しく充実した表情の大人たちを見ることで「自分もあんな風に仕事がしたい、あんな大人になりたい」と、将来にあたたかな光をともせるのではないだろうか――と、多少話が飛躍してしまったが、「言葉ではなく態度で示す大人」のかっこよさは、どの世代にも少なからず伝わり、あこがれを抱かせるはずだ。

 映像の中で奥田民生が語っていた、「おじちゃん、どうして知ってるの!?」と目を輝かせておもちゃの使い方を聞いてくる子供のように。

 そうしてきっと、パラダイスの作り方は受け継がれていくのだ。

 ツアーを「第三パラダイス」と銘打ちながらも、「夢」の裏にある「現実」の側面を見せることで、誰もが楽でいられるパラダイスなどないと暗喩するようなこの作品。

 しかし、「パラダイス」の創造を目指すために全員で奮闘する過程は、時に楽しく、時に充実したものでもあったはずで、それもある意味では楽園のようなものであるのかもしれない。

 川西幸一は「この作品の続編が作れるようなライブを、また俺らも作っていかなきゃならない」と語っていた。

 歳を重ねてもなお、革新的なことに挑戦し、よりよいものを目指して転がり続けていく彼らの道程。

 それを、この先もずっと観ていたい。

 観客としてはいつもぼんやりと抱く思いではあるが、この作品を観終わった後には、その思いが普段よりも強く、実感を伴ったものになっていた。

 それはきっと、メンバーやスタッフも同じ思いであるということ――それを、この作品にあふれる幾多の愛を通して、共有できるからであろう。

*1:この後リリースされた映像作品はこの『D3P.UC』をカウントした通し番号がつけられていたのでこれも実質『MOVIE』シリーズで良いのだと思います。勝手に推測してすみません…

やられる前にやっちまえワクチン体験記

大変お久しぶりです。
もはや振り返るものもほとんどなかった2020年が明け(とはいえQAL観たんだよな…)、まだまだ世間も落ち着かない2021年もほぼ半分終わりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
趣味のことだけ書こうと立ち上げたブログではありますが、まあこれも一つの記録だろうということで書いてみました。内容はタイトルの通りです。ちなみに種類はコミナティ。と聞くといつもくわえタバコででっかいシンバルを打ち鳴らすあの方が思い浮かぶのですが…(※ちなみにミナティと呼んだことはない)。
読んでいただく前に、これはとても大事なので覚えておいていただきたいのですが、いつものライブの記録と同じくあくまで個人の体験であり記録です。副反応の経過とか対処(これは特に)(理由は後述します←フラグ)とか、「こんな風になる人もいるんだなーへー」くらいで受け止めていただけますと幸いです。
なおわたしはこと自分に関してはめちゃくちゃにファジーな対応しかしない人間なので、そこのところもご承知おきください…(フラグその2)。

 

 


ワクワクワクチン〜準備編〜

 

・接種日
決まったら自動的に3週間後に予約をとることになるので、どちらも休前日にさせてもらいました。これはナイス判断だった。ヨーロッパ20カ国制覇くらいナイス判断。なぜなら副反応が出たからです(この記事のオチです)。


・予診票
もらったら接種前日までにほぼ埋めました。当日書いたのは朝の体温と「本日の体調は?」って質問のチェックくらい。それも朝起きてすぐ書いた(体温測ってすぐ書かないと忘れるから)ので会場では提出するだけの状態でもっていきました。
ちなみに消えるボールペンで書いたら後々消えちゃうので、普通のやつで書きましょう。
持ち物は大体同じだろうから割愛。クーポンと身分証(保険証とか)はお忘れなく。


・服装
肩を出せる服装。と言ってもどれくらい?って話ですが、本当に腕をまるまる出せるくらいが良いです。思ったより上の方に打たれます。アニーさんの腕だとスナオオカミのアザより上ぐらいなんじゃないだろうか(※わかる人だけわかればいいと思っています)。肩だけ出てる服とかでもいいと思うけどね。
わたくしは両日ともXLサイズのバンドTで行き、接種の直前に袖をまくりました。オーバーサイズ好きがこんなところで役立つとは。多分襟付きのシャツとかだとそこまでまくれないんじゃないかなー。個人的には終わった後も打った部位が締め付けられなかったのも良かったです。別にそんな痛みはしなかったけど。


・水分
これに関しては半信半疑だったのですが、結果オーライな感じだったので書いておきます。
Twitterで「接種の前後に水分をたくさん摂っておくと副反応が軽くて済む」なる情報が回ってきまして。ふんわりしているし本当かな〜と思っていたのですが、接種2回目は副反応が強く出ると聞いていたので、まあ試してみるかと普段以上に水分を摂って挑みました。結果は後述します。
量としては接種の1時間前〜接種の1時間後くらいの間に600mlくらい。なぜなら自分が飲める量として最大限がそれくらいだと思ったから。
内容は約600ml入りのミネラルウォーターに規定の半量のスポドリの粉を入れたやつです(『約』というのはペットボトルに粉を注ぐ時案の定こぼしたからです)。まあ普通にスポドリ買っても良かったんですが、あんまり糖分摂ると余計のど渇いて逆効果かなと。ただわたしもお茶や水はそんなにぐいぐい飲めないため少しでも甘い方がいいなということでこの方法に。なお余った粉はさらに2ℓのミネラルウォーターに溶かして虚無ドリンクを作り、翌朝までに飲み切りました。
ちなみに接種後も食事時などに麦茶を飲んでいます。なぜ麦茶かというとカフェイン入ってるコーヒーとか緑茶とか紅茶とか烏龍茶とかだとトイレに行きたくなるから。飲んだ分出てったらもったいないので…。
そんなこんなで接種前から夜までで計1500ml以上は飲んだ…はず。ただ、あんまりガブガブ水分摂っちゃいけない体調の方もいると思うのでこれは一例ということで。


・解熱鎮痛剤
前日までに、自宅にあるかどうかをチェックしておきました。万一熱が出たとして、そこから薬を買いに街へ出るのは自分にも他人にとってもあまり得策ではないな…と思い。なお、接種後は可能ならサッと手の届くところに置いておくと良いと思います(薬に容易に手を届かせるとまずい存在と同居しているならば別ですが)。
元々市販の痛み止めの類は使うことがほとんどないので常備はなく、買うか〜と思っていたのですが、以前処方されたロキソニンと胃薬があったのでそれを取り出しやすいところに置いておきました。
わたしのように常用していない方はこれを機会に買っておくか少量処方してもらっても良いのでは。ちなみにどんなものを飲んだらよいかは厚労省のワクチンQ&Aに書いてあります。とはいえ内服(というか接種して副反応が出る)前にかかりつけ医や薬剤師さんにご相談を。


・飲料、食料
熱が出た時用に、あっためたりお湯を注いだりすればすぐ食べられるものと水分を準備。
もとから万一に備えて買い置きしていたので新たには用意していませんが、レトルトのお粥や味噌汁など消化に良さそうなものにしました。まあ結局普通に食事したけども。

 

 


ワクワクワクチン〜接種編〜


まず医師の問診を受けます。予診票をチェックされまして、OKサインをいただきいざ接種へ。
椅子に座ると肩を出してくださいと言われます。その前から袖をまくってはいましたが、しっかりと肩にあるぼこっとした骨(菊地のご兄弟も出がちなやつ)(わかる人にだけ略)が出るまでまくるようにしました。そこまでしなくてもいいのかもわかりませんが、作業スペース(※腕)は広い方がいいかなと。
アルコールで消毒され、いざ「ちくっとしますよー」。
…痛くない。
なんか刺さってる感じはする。なんか入ってきた感じもする。でも、痛くない!
全然痛くないわけではありません。だって針刺さってるし。でもインフルエンザの予防接種と比べたら「痛み」というより「違和感」に近い。薬が注入される時もそこまで痛くなくて非常にホッとしました。
注射の痛さは打つ人の上手下手というより痛みを感じる点を通るか通らないかだと聞きますが、針が細いからか上手く避けたのかなんなのか。これなら幼少期、捕まえたセミを手にとまらせてじっとしてたら樹液を吸う管(?)をぶっ刺された時の方が痛かったです。誰にもわからない例えはやめろ。
針が抜かれたら打った部位をちょっとおさえて、絆創膏貼ってはいおしまい。揉んだりはしないでいいとのこと。そういえば昔々に受けた予防接種は注射より揉まれる方が痛かったなあと思い出したり。時代は変わったな〜(©︎あべどんさん)。

15分ほど休んで会場を出ました。特に気分不快やじんましんとかは出なかったです。

 

 


ワクワクワクチン〜その後編〜


・接種1回目
2回とも、接種当日はそのまま職場に向かい仕事をしておりました。特に違和感もないっすね〜wなどと話していた1回目接種からちょうど4時間後、ふと接種した方の腕を動かすと痛みが。
この痛みがなんというか…我慢できないとかすごく痛いとかではなくて、打った方の方に少し力を入れると、打った周囲に表層だけの筋肉痛が起きるような、そんな感じ。同じ日に打った方からはもっと広い範囲が痛いとの話もありましたが、まあ力も入れなければ大丈夫かなという程度。
さらに3〜4時間後、痛みは少し強くなりました。普通に過ごしてれば意識しない程度だけど肩より上に挙げると痛むので、台所の上の扉にうっかり手を伸ばし「イテッ!!」となるのを何回か繰り返す。でも痛み止めを飲むほどじゃないかな〜と思いそのまま就寝。
翌朝、打った部分は触るとわずかに硬くなっていました。二度寝するかと寝返りをうったところで注射した方の腕を下敷きにしてしまい再び「イテッ!!」となる大豆田みやこ。この他にもうっかり壁に寄りかかって「イテッ!!」となりました。でもつまりはそれだけ、圧迫しなければ意識しないで過ごせる程度だったのです。
さらにその翌日には痛みも全くなく二度寝ができました。


・接種2回目
1回目がああだったしヨユーじゃね?と思いつつ前述したように水分を摂って準備(ビビり)。
接種から約3時間半後、腕を挙げると打った部位周辺に痛みが。1回目で言うと夜〜翌朝に見られたやつが早くも。嫌な予感がしつつもその日の仕事は無事こなせました。
接種から約12時間後、そろそろ寝るかと思い始めた矢先、打った方の腕に違和感が。先程までよりも痛みが強くなっている気がするのです。いやでもここまで何もなかったから気になるだけでないか?と思っていたら、さらに1時間後、身体全体にだるさとわずかにぞくりとする感覚が。これはもしや、と熱を測ると36.6度。まあ寒気だとしても「夜はまだまだこれからさ」って感じだもんな…と布団に入ったものの、ぞくぞくとした感覚がおさまらず寝付けない。こんなの本当に久々だなあと思いつつ、だからこそ耐性もないのでうう〜寒いよ〜とボヤきながらなんとか丸くなって目をつぶっておりました。けれども1時間経っても眠れず、頭痛まで出てくる始末。とはいえできることもないので、ただただ横たわっていると頭痛はじわじわ引いていった…ような気が。
それから約2時間後、覚醒。打った方の腕が痛み、やはり頭痛は引ききっていない。そのかわり寒気が消え去っていたので、もしやと思い熱を測ると38.4度。うわ出たー。数年ぶりの38度台。重たい身体を起こし、虚無ドリンクを飲んでアイスノンを首に当てがいます。そしてここで文字通り熱に浮かされたわたしはぼんやりと思うのでした。
これ、どれくらいまで熱上がるんだろ?
そもそも上記二つの用事を済ませた時点で億劫になり再び布団にくるまってしまったので、もう起き上がりたくありません。水分も摂ったしここから下がるんじゃね?と思い、実験気分3割面倒臭さ7割の気持ちで目をつぶったのでした。よいこはまねしてはいけません。
やっぱり数十分は寝付けず、それでもとろとろと眠りに落ちていたようで次に目覚めたのは明け方。頭痛はまだあるけど腕の痛みはちょっと減った(気がする)し熱もさすがに下がっとるやろ、まあまだだるいけども…と試しに体温を測ってみたところ、まさかの39.0度。おおう…と思いながらも先程と同じように水分を摂り布団にくるまろうとしたところで、はたりと一つの事実に気づくわたくし。
これ、このまま熱が続いて動けなくなったらやばいんでないか?
そもそも睡眠不足な上に発熱で消耗している身体。今はまだ冷蔵庫まで歩けるから水分は摂れるけどもこの先は?数分考え、億劫さになんとか打ち勝ったわたしはのろのろと身体を起こし、用意していたロキソニンと胃薬を内服したのでした。
そしてさらに1時間半が経過。目を覚ますと深夜バスに乗った時以上に寝汗をどっぷりこいている。頭痛はあるけどなんかちょっといい感じ、と思って測った体温は36.6度。効いたわー!!とスクラートのCMのようなことを思いながら起き上がり水分補給。
その後は二度寝(何度寝?)できなかったので、ぐっしょりのシーツを洗ったり掃除をしたりゴミを出したり洗濯の終わったシーツに洗濯機の汚れがついていて衝撃を受けたり洗濯槽の洗剤を買いに行ったりしていました。が、買い物の途中で頭が痛くなりよろよろと帰還。
午後は安静にしていたものの、やっぱり頭が痛いのでさらにロキソニンと胃薬を内服。効いたような効かないような感じでしたが、その後も洗濯槽の掃除をしつつゆったり過ごしました。多分副反応というより、高熱出した後に割とこまこま動いたのがいけなかったな…。あの頭痛とだるさの感覚は、昔、熱が下がった後のそれに似ていたので。とにかく仕事じゃなくてよかった。
翌朝の体温は36.8度。腕は若干痛む程度で、頭痛はすっきり消え去っておりました。

 

 


かえりみ点


水分を摂ったことによる効果はよくわかりませんでした。飲んでいたからあの熱で済んだのか、それとも飲んでなくても変わらなかったのか…まあそもそもn=1だとわかんないすね…。
とはいえ熱が下がる時にめちゃくちゃ汗をかくので、そのためだけでも水分摂っておいてよかったなと思います。脱水になったらあかんからね。ちなみにOS-1とかではなく普通のスポドリにしたのは、自分なら食欲は落ちない=ミネラルは摂れるだろうという楽観によるものです(そして見事に落ちなかった)。


解熱鎮痛剤を内服するタイミングについては完全に遅かったと思います。よいこは(略)。もうちょっと手元に近いとこに置いておけばよかった。
とはいえ、じゃあ何度になったら飲めばいいの?という疑問点もあるかもしれませんが、これは一概には言えないよなあと。例えば同じ37.5度でも、平熱が35度台の人と37度台の人とではつらさは違ってくると思うので…。
今回は個人的な判断として、寒気がしている間は熱を上げている途中だろうからおさまったら飲もうと思っておりました。とはいえこれより前に熱を出した時は寒気が残っていても38度台まで上がっており、つらくて内服してしまったのですが…(ちなみに副反応ではないです)。本来はこんなに我慢せず、38度台の時点で内服すればよかったなーと思います。そしたらもっとゆっくり眠れたろうし、そうして身体を休ませたら頭痛も長引かなかったかもしれないし。
もしこれを読んでいる方で、基準があやふやで不安であれば、かかりつけ医、またはかかりつけがなければ問診の時に医師に聞いてもよいのではないでしょうか。ちなみに熱が出る前に内服しておくことは推奨されていないようです。

 

 


さて、久々の(うろ)覚書がこんなものになるとは思わず…2019年の自分が知ったら色んな意味で背筋が凍るだろうなと思いました。まあわたしだって2019年のスケジュール見るとハァ!?!?!?ってなりますが。いつ仕事してたん?(でもだいぶしてた)
ここまで読んでいらっしゃる方はなかなかいないとは思いますが、そしてこの後は完全に蛇足なので読まなくて大丈夫ですが、最後に書きつけておきたい今の思いを。


わたしがワクチンを打ちたいと思ったのは、何より大変な病気を誰かにうつすかもしれないという恐怖心が一番でした。
もちろん、自分が罹りたくないという気持ちも多分にあります。ネットで感染した方々の話や治療にあたる医療従事者の方々の話を読むたび、それこそ背筋が凍るので…。
けれども、それ以上に、自分が感染して知らず知らずのうちに誰かの命を危機に晒してしまう、人生を辛い方向へ変えてしまう、その危険性があるのがものすごく恐ろしいのでした。
だからこそ、あんなに数多参加していたはずのライブもぱったりとチケットに手を出そうと思えなくなってしまったし、あんなに地方を飛び回っていたはずの足はまったく動かなくなりました(比喩です)。最初の頃は、友達や肉親とも数年単位で会えないんじゃないかと漠然と思って静かに絶望していたりもしました。
リモートワークできない仕事なのでもらっちゃうリスクはまあまああるし、それを渡してしまったときに重症化するであろう人とも関わっている。そんな状況ではとてもとても、臆病なわたしには遊びに行くことに意識が向けられないのです。もちろん時々趣味の買い物などに出ることもありますが、少しでも人混みに遭遇すると気になって100%楽しめないし。なんという損な(?)性格…。
なので、こんなにも早く、しかもこんなにも効果が高いワクチンが開発され接種できたことが、とても希望のように感じられています。
もちろん、打ったからといって絶対に感染しないということはありません。インフルエンザのワクチンを打っていてもそれっぽい症状が出たことありましたし(今回のワクチンとは効果の高さが違いますが、あくまで例示として…)。とはいえその時も同時に感染したと思われる方々よりも軽い症状で済んだし周りにもうつさなかったので、やっぱり予防できるものは予防することは大事だなと思います。罹ってから治すことができるものもあるけれど、身体や心はその間それなりにダメージを受けているはずなので…少しでも多くの人の人生が、少しでもそういう時間が少ないものであるといいなあと思うので…。
なんだかいい子ちゃんなことばかり並べてしまいましたが、本当にそう思います。


人それぞれ一番大事なことは違うと思いますが、わたしにとっては生きることと、できるだけ健やかな心身であることがそれです。先生やロジャーが言うように、しなないこと、息をし続けること。自分は疎かにしがちですが(おい…)、そしてわたしの大切な誰かにとっての一番がそれでないこともままありますが、やっぱり生きてこそ、なことは多いと思うのです。何かを思ったり感じたりすることすらも。
だからまあ…大したことない、自分は大丈夫、それよりも大事なものがある、好きなひとがそのようなことを言うのを見るたびものすごく落ち込んでいたのですが(訂正、見かけるたび今も進行形でかなり落ち込む)、それはそのひとの考えとして、とにかく健やかにいていただければそれでいいなと。
わたしが病気に罹りづらくなり感染を広めづらくなることが、巡り巡ってそのひとたちを守ることにつながったらいいなと。わたしの「好き」は今そんな感じ、そう思うのでした。…でもやっぱりまだ落ち込むので、悟り切れてはいないけれど(苦笑)。


早く何も気にしないで「好き」なひとたちに会いに行きたいなあ。ステージを観ながら笑ったり泣いたり、美味しいものを食べながらおしゃべりしたりしたいなあ。
とはいえそれまでもその後も、淡々粛々と予防に努めていきたいと思います。
皆様もどうかご安全に、健やかにお過ごしください。

 

 

追記:2022.2.2
いやー大変なことになってきましたね感染の広がりっぷり。こんな軽い言葉で表せない程度には色々ありますが(とはいえわたしなんてさほど、なクラスですが)、皆様どうぞお大事になさってください。命には代えられない。マジで。
そんなわけでやられる前にやっちまえ体験記、ブースター接種を受けたので追記しておきます。打ちたい人は打つだろうけど参考までに。


とはいえ今回、正直ほとんど書くことがないくらい何も起きませんでした(汗)。


打ったのは1・2回目と同じファイザーのコミナティ。自分で選んだわけではなく選ぶ余地がなかったので。
交差接種の方が抗体上がるって聞いたので後からあ〜あと思ったのですが、打たしてもらっただけで全然ありがたい。公費だし。


・準備
予診票は前回と同じく記入していきました。
微妙に悩んだのが服装。前回打ったのはあったかい時期だったからいいけど今回は冬なわけで…会場まで半袖というわけには…いやでもセーターやらシャツやら重ねてたら肩なんて出せない…。
考えた末、持ってる中で一番分厚くて袖の長いローラちゃんビッグTで行くことに。さらに上から前開きの厚手パーカーと前開きのダウンを着用、ネックウォーマーもして、サッと脱ぎ着ができる&肩が出せるようにしていきました。なおわたしは究極の面倒くさがりなので、前開きの衣服なら3枚くらい重ねたまま脱ぐという技を持っているため注射直前まで全て着たまま行きました。何の話。
動くと暑くなるタイプの人間でもあるので今回はしなかったけど、もっと寒かったら腰とかにカイロ貼って行ったかも。
水分のことはすっかり忘れてたので特に補給せず。まあ熱が出るにしても汗かきそうなら飲めばいいだろ精神。食べ物や薬は元々感染した時用の備蓄があるので特に買い足しはせず。


・本番
今回は1・2回目と違う会場だったので色々とドキドキし案の定迷子になりなおかつうっかり大きめの買い物をしてから臨んでしまったのですが(外出の機会なるべく減らしたいマン)、会場のスタッフさんが皆さん親切で助かりました。
流れは本人確認→医師の問診→接種→待機と当たり前だけど同じ。
接種前にガバッと一気に上に着てたもの脱いでTシャツになったら「あっそんな無理しなくても…;」とちょっと引かれた。気がする。
注射自体は1・2回目と同じ、ほとんど痛みは感じませんでした。もちろんチクッとはするけど。でも例年受けてるインフルエンザの方が痛い。なんかインフルとコロナを一緒くたにしたワクチンが開発されてるみたいな話をネットで見たけど、本当なら是非とも早めに実用化をお願いしたい。
待機期間も特に何もなく終了。周りもずっと静かだったので何もなかったのだろうなあという感じ。
大きめの買い物袋を下げて帰宅したのでした。


・その後
正直、特記すべきことはほとんどなく…。
接種から約4時間後、注射を打たれた付近に身に覚えのある痛みが。ちょっと肩上げづらいかな?と思っていたところ、さらに2時間後には肩を上げると「イテッ!!(←口が悪い)」と声をあげてしまう程度には痛くなる。これも前と同じ感じ。
そしてさらに5時間後。その日はうっかり夜更かししてしまったのですが、その時点で前回よりも肩がだいぶ痛い。腕があげられないどころか伸ばすだけでも痛い。寝るべ、と寝床に入って30分、今度は寒気がしてきてなかなか眠れなくなる。しまったさっさと寝ればよかったな〜と後悔しつつ、毛布を増やしてカタカタ震えながらなんとか就寝。
で、7時間くらい寝てぱっちり目が覚めた時、寒気はさっぱりなくなってました。その割に熱も上がらず36度台。だるさはちょっとあるけど全然動ける程度。腕は伸ばすと痛いかな?という感じでしたが、それも当日中にほとんど気にならなくなりました。


・総括
大したことなかった(※個人差があります!!)。

水分の量はやはり副反応にあまり関係がないのではないか。いやでももし熱が出てたらもっと飲んだと思うけど…。出てたらね。


皆さんも機会がありましたらぜひ。外出の際はマスクをきっちりつけて他の人と距離をとりながら移動し、こまめな手洗いもお忘れなく。
そして2月現在、外は本当に寒いので、あったかくして行ってらしてください。スタッフさんは絶対急かしたりしないので、わたしのように着てるものをババッと脱げるようにしていかなくて全然いいと思いますw 何事もあせらず、ゆっくり確実に。
色々と大変な世の中なので、本当に本当に、どうか元気でお気をつけて…。

「王様になれ」を観ました

買いました、BD初回盤。豪華三枚組。

通販したのだけど、このご時世にちゃんと発売日に受け取れたことに本当に感動した。

ありがとうございます。各方面の方々、本当にありがとうございます。

 


先行試写会から数えるともう映画館では片手で足りないくらいの回数観ていて、それでもあんまり細かいこと全ては覚えていられず、そして公開中にあんまり細かいこと書くのもどうなんだとか尻込みしていて、また去年の怒涛のスケジュール(なんせ好きなバンドが三つとも、ライブやらリリースやら何やらが目白押しだった)により、ちゃんとした感想を書いてなかった。

なので、久々に観るしせっかくだから、映像を観ながらまず、ここがいい!を書き出してみよう〜と軽くやったら自分でも引くほどの量になってしまったのである、、、Twitterで実況しなくてよかった。

で、箇条書きみたいな感じで読みづらいけど、せっかくだから残しておくことにした。

実況に肉付けした感じなので、一応映画の流れに沿っている、けど、極力内容はふわっとさせたつもり…。ただしネタバレではあるので、ぜひ映画本編を観てからどうぞ。

 

 

 

・最初のバッドミュージックのジングルがシンプルながら好き。あとBOOSTERさんのは和田誠さんのイラストなんだなあ。かわいい。

 

・最初のセリフ(ナレーション)の響き方がとても好き。響き方?本当に心の内でつぶやいているような、でもボソボソしすぎないような。そしてこれがあのライブに繋がってたのがわかった瞬間、横アリで号泣した。


・監督、湯切りで本当に首を傷めなかったかとても心配、、、

 

・奥村さんの感じがとても良かった。すごくナチュラルで。コメンタリーで嫌味っぽいみたいに言われてたけど、アレって嫌味っぽいんですね。こういう人、仕事でかなりよく遭遇(略)。後のスタジオ予約するシーンにも出てくるけど、本当にお上手。まあまあ経験あってやる気もなくはないけど後輩にはぞんざいな感じ…(←ほんとにどんな所で育ってきたのか)


・クレーンがゆーっくりと回るとか、グラスの水があふれてこぼれていくとか、最後の方のシーンだけど木漏れ日がキラキラしてるのとか、そういうさりげなく入れられるカットが好き。ピロウズ第3期の初めの方のMVぽい…気がする。あとクレーンの無骨な感じで、なんとなくカーニバルの観覧車を思い出したりする。


・祐介くんとゆかりさんの出会いのシーン、監督があの曲モチーフって言ってたのが当たっててすっっっごい嬉しかった(ただし三曲くらいのミックスだと思ってた、ladybird girlとジョニーストロボとかかな~みたいな)。


・テナーのお二人、演技うまくて笑うw指でバッテンかわいい。道端で好きなバンドのメンバーに会っちゃった時「もしかして(自分たちのこと)知ってる?」って言われたら怖いからバンドTは着ていくところを選ぼう(自戒)。

 

・甥っ子と叔父さんのシーンはおしなべて好き。「や、なんとなく」「なんとなくう〜?(ニヤニヤ)」のやりとりが好き。お節介にならない微妙ないい距離で見守ってくれる叔父さんがいい。


・ライブシーンは「かっけー!!」しかない。なんか、映画の中のバンドの撮り方というよりちゃんと?ライブの撮り方に近い、気がする。から気が散らないというか自然にライブ観るモードと映画見るモード行ったり来たりできる感じ。編集ってすごい…


・仕事する虻川さんかっけ〜ライブ中お見かけする塁さんもかっこいいもなあ。そして観客として来てる祐介くんの表情の変化がいい。わたしも多分あんなだった、最初のライブ。


・祐介くんとゆかりさんの微妙な距離感、わかりみが過ぎてつらい。だからこそ見てて胃がちょっとキュッとする。気まずい…(彼らはそこまでではないかもしれないけど)。

好きなことについて、一を聞かれただけだから十答えないように気をつけてるのに五返してしまって相手を戸惑わせてしまったかもな時のキュッてする感じもつれえ〜こうやって受け止めてもらえたら嬉しいよね…動機はどうあれ…


・そしてここで二人の年齢がわかった時に、わ!って思った。あまり若過ぎないというかいわゆるモラトリアムは終わりかけくらいで、でも悟りを開いてるほど高過ぎない、みたいな…絶妙…。


・公園の遊具をひらひら行き来するゆかりさんはパトリシアみたいだなあと思う。パトリシアに限らず、ピロウズの曲に出てくる女の子。「大人みたいな子供みたいな瞳」をしてるような。このあと、二人で公園を歩いてるシーンの横顔とかもそんな感じ。


・貸してあげてたCDの山、背表紙(?)のラインナップを見て「ゆかりさん…わかってる…!」ってなった。そしてこの…だんだんとハマってく感じ、めっちゃわかる…わたしも最初はあんな風にCDの山を築いて…ステッカーめっちゃ貼って……音楽と人読んで衝撃を受けて泣いてた………


・ゴルフボールごろごろ〜のシーンは何かのモチーフなのかなあってずっと気になってる。


カサブランカに合わせてちょっとボヘミアンぽいお洋服でくるゆかりさんがかわいい。その気持ちちょっとわかる。あとこの時の二人がとってもかわいい…楽しんでる感…


・むりむり!からバーッて早口でしゃべるゆかりさんと、そのあと追いついた祐介の感じが、年上の女の子と年下の男の子感あってとても良い。かわいい。


・平田さんめっちゃ面白い………Sweet7面白かったなあ。

 

・ゆかりさんとお友達のやりとりがとってもいい。妙に女の子女の子してなくて。わたしだけかもしれんけど同性の友達とのやりとりってこんな感じ。そして「話すと重くなるし」にぎゅっとした。そういう感覚はとてもわかる。


・村杉さんのオロオロ感とても良いwこの人もいい人なんだろうなあって伝わってくる。ここまでなんだかんだ面倒見てくれたんだもんね。


・甥っ子と叔父さんのやりとり良い(二回目)。「お前も俺と一緒で…」と思ってるからこそのこの距離感なのだろうな、叔父さん。握った手のお写真の話はぎゅーってするし、そういうことってよくある(ありふれてるとかそういう意味ではなくて)から、コメンタリー聞いた時もっとぎゅっとした。


・祐介と自転車のシーンはおしなべて良い。前髪が上がっちゃうほど前のめりでシャーッと走って行く感じが…少年と青年の間の、いい意味で青くささが抜けきってない感じがする。


・虻川さんかっけー(二回目)。手つきがプロい(わからんけど)。Tシャツに目をやって”気づいた”感じのカットがなんか好き。あと、ここで祐介に何か才能を感じて、とかじゃないのがまたいい。現実味がある。

 

・ちっちゃい女の子にちょっかいかけてるゆかりさんもパトリシアっぽい。近所の子供にこの頃人気者…(無反応だけどw)。そして曲の入り方がいちいちとても良い、、、原曲ファニバニのイントロの、あたたかくて穏やかなリズムが、嬉しくてちょっと跳ねる鼓動みたいで。


・亮介くんお芝居上手くない?びっくりした(初見時の感想)。あと楽屋の隅っこにいるのめっちゃびっくりして心臓止まるかと思った(初見時の感想)。「枕を変えたら眠れない」いい曲や〜亮介くんのハスキーな声好き。そしてこのシーンがあるからこそクライマックスのシーンが生きるんだよなあ。対比。邪魔っけにされたり、オドオドというか戸惑いながら撮ってたり。とか。いいなあエキストラ行きたかった…仕事…

 

・諦めるの語源、のセリフは刺さる、、、虻川さんが嫌味とかでも上からでもなく、まっすぐ伝えてくれてるから、なおさら。

 

・丘のシーンはどれも本当に好き。鮮やかな青のジャケットの色合いがいいなあ。カーディガンをぼすっと渡したり、ネットをシュッと取ってポンポンして畳んだり、そういうのがゆかりさんだなあって感じで好き。年上なんだなあと思う。そしてここのシーンで流れるゆかりのテーマほんと好き…。この丘は「ゴルゴダの~」の方かと思ってたから、あ、その曲モチーフ!?ってびっくりした…監督すごい。確かに色合いもあのMVぽい…気がする…

 

・しゅる、って手が離れていく時のゆかりさんの横顔がまた大人みたいな(略)。ゆかりさんはきっとこの時、この話(宛先のない手紙を書いてること)を初めて他人にしたのだろうなあと思う。ピロウズの話もだったろうけど。自分の心の一番深いとこに触れるようなお話。多分あの友達にもしてなかったんじゃないかな。笑わないで聞いてくれる(ちゃんと受け止めてくれる)と思ったからこそ、だろうな…まああのお友達も笑わないと思うけど。これまで、ピロウズの曲でわかりあえた祐介くんなら、ちょっと”重い”感じの話もして大丈夫かな、と思えたのかなあと(それでもまだ”ちょっと”ね)。


・リコさんが登場からして最高すぎてヤバイ。「なんなら抱いてやっから!」とか、何故かカタコトになるのとか、「鍵にそっくり!」とかww


・病院のシーンはどれもひゅっとするんだけど、この待合室とか病状説明とかは特にしんどい。同じような状況におかれたわかりみがあるが故に。涙浮かべてないバージョンも見てみたい気もする。ゆかりさんはこれまでこういうの全部一人だったんだろうなあ。検査も説明もそれを受け止めるのも、全部。まあこの歳になればそれはそうなんですけど。


・モデルさんの緊張をほぐすのに好きな色とかから攻める虻川さんプロい…なんか逆に(?)エロティックでドキドキする。

 

・初見時から、ネギ乗せた瞬間にもう死亡フラグだ…って全俺が青ざめた(スープに風味が移るのも無理って聞いたことあるから)。これ三杯食べたんだっけ、高橋くん…wでも確かにおいしかった。もろさんのラーメン。


・喫茶店から出てくシーン、ゆかりさんはこうやって人と距離を置いてきたのだろうなあと思う。わかんないんだなこの人って思ったらそれ以上何も言わずスッと離れるというか。ここで食い下がるというか、ちゃんと距離を保ちつつ(グイグイと無理矢理踏み込みすぎず)も離れないでいてくれたのも、祐介くんが初めてだったのかもしれない。
好きなものに色々言われてただただ悲しくなる気持ちはとてもわかる、でもそれをちゃんと伝えられるのはすごい。貴重な関係性…。そしてここのゆかりさんのセリフはわたしが言ったのかと思った。わたしがどう救われてきたとか何にも、って、これまで、誰かに何か言われるたび、何回心の中で思ったことか。話さなければ理解は得られないのかもしれないけど、ただ話しても理解してもらえないこともあるんだよなあ。


・お節介の圧がすごいようでいて、祐介くんに対して上手い距離をとってる…と思う、リコさん。叔父さんのような男の人のこと、よくわかっているがゆえなのだろうかw

名前変えたこととか(まあ商売的に当たり前なんだろうけど、『田舎くせーから』の一言でさらっと捨てられる潔さはすごい)、この歳だけどエンジェルに出会えたってカラッと話すとことか、酔っ払ってるようで確信をつくとことか、とってもかっこいい。


・大将もう首痛くなくてもコルセットずっとしときなよ…

 

・ゆかりさんのお兄ちゃん、微妙に方言ぽいニュアンスが混じるのがぽくて良い。あと肩越しのショットがイケメン。


・「新井さんですか?」ってセリフ聞いた瞬間なんか嬉しくなった。現実味!あと虻川さんのお名前判明した時わ〜って思ったw


・ぴーちゃんのギターショット!!!!!!!!!!envyよね?

 

・西小路くんの「それっぽさ」がそれっぽくてすごい、今時のデキる子って感じ。嫌味を言うのに面白味を感じてるんじゃなくて、ただただ執着心がない、ドライなだけというか。そして虻川さん、面倒見いいんだけど、それが無理してたり甘やかしすぎてたり面白がってやってるわけじゃないのがいい。あくまで自然に面倒見てるというか。


・チッタのエキストラ行きたかったよ〜〜〜(仕事)アー写の衣装着てるピロウズを生で見たかった…
ホリエさんのストカメ最高すぎた、、、もしも全てが嘘で〜でアカペラぽくなるのが最高。そしてそこに被さる祐介くんのショット、ちょうどあの頃のさわおさんに雰囲気が似てるんだよなあ。それこそストカメのMVとかの…ちょっと前髪が上がってる感じがまた。
昔はライブで途中退席する人の気持ちがわからなかった(具合悪かったらまず来ない方がいいのでは…みたいな)けど、この歳になってわかってきた、、、常に体調は低空飛行なんだよ、、、臨界点を迎えるかどうかっていう、、、いけると思ってたのに急に、みたいな、、、周りも含め。
GLAYのお二人のスケアクロウも最高、アラバキのも良かったなあ…(もちろんホリエさんも)。 スケアクロウ、元々大好きな曲だから、大事に歌ってくれて(る感じがして)嬉しかった。そして「僕のために君が笑う」のとこで「君」(たる、ゆかりさん)がいない、というのがもう…


・街歩きの祐介くんのシーン何気なく好き。無音(というか、街や彼の出す音)だけなのが良かった、彼が見て感じている景色のようで。


・自分の気持ちを文章にして吐き出す癖があるわたしとしてはわかりみしかないシーン。この時はまだ書いてあること見せたくなかったのだなあ。
祐介くん、撮ってもいい?とかこういう時に言えちゃうの、親御さんが早くに亡くなりながらもまあまあ健やかに育ったのだなあよかったねえと思ったりするなど…(邪推)。
わたしにも”そういうの”はないので、羨ましいのもなんかわかる。というか、ゆかりさんにもあるんだけど、ずっとは続かないって思ってるんだろうなあ…全ての、幸せみたいなものが。夕陽の逆光が美しい、、、それゆえに離された手が切ない。


・ファンて言われて嬉しそうなさわおさんかわいいwプロデューサーとして本当にこういうお仕事もしてるんだろか。あとフェス出演の動画コメントとかで見慣れたスタジオの壁やソファだな~ってふふふってなる。


・座ってたゆかりさんの幻もなんかピロウズの曲っぽい、気がする。そして宮本くんの昇らない太陽最高だよ〜やわらかい哀愁があるというか…いつかちゃんと音源出してほしい。あと、彼が緊張しいだとは意外だった。なんか何気にへらっとこなすタイプかと…


・このギャーーーン!ってハウリング最高…………からのスリーピーヘッドとボヘミアンズがめっちゃかっけえ。ぱんだくんの指がピロピロしてるのかっけえ。この時の祐介の表情もまた、他のシーンと違うんだよなあ…すごい…


・いつどこの映画館で観ても「どういうことなんだよ!」で客席の空気がシーーーーンッて凍って張り詰めてたの思い出す…………

 

・スタジオ出た後の虻川さんがまたかっこいい。ここまでちゃんと言ってくれる人なかなかいないよなあ。自分のメンツを潰されて怒ってるんでなくて、祐介くんが自分を曲げたことに怒ってるんだよね。なんていい師匠なんだ…あと写真の飛び散り方が最高。後の回想で出てくるとこも含めて。


・この繁華街のカップルの女の子の演技が何気に良かった。あと祐介くんのスマホの落とし方が良き、心ここに在らず感。
さすがに怪我はないけど、うつろな眼で小声で歌を(心の内で)口ずさみながらとぼとぼ歩いたことは何度もあるのでなんかもうわかりみしかない。どうしようもない時に流れてくるのは決まってピロウズの曲だった。このやわらかな歌から、ガーンッていつものテンションのサビが来て、そこにゆかりさんの満面の笑顔がフラッシュバックするのがつらい。きゅうっとして泣いちゃう。そのあとに入ってくる、ハイライトみたいな甘美なシーンと、辛いシーンとの対比がまた…


・からの、イチャイチャを見られてることに気づいた時のお二人の演技よ…www
叔父さんと甥っ子のシーンはやっぱり好き。この高架下の雰囲気がまた良き。叔父さんは親ではなくてあくまで叔父さんだからか、いい意味で甥っ子の前でも取り繕わない(自分をちゃんとした大人に見せようとして、背伸びしたり偉そうにしたりしない)んだよなあ。あと、互いにものづくりをする人たちだからこそわかりあえるとこもあるのだろうな、とか。

「臆病に支配されてる」ってちょっと芝居がかった?セリフも、リコさんが言ったからこそ成立する感じがする。ちょっと浮世離れしたような、どっか悟ってるようなリコさんだからこその言葉というか。そして目線きょときょと、だけで叔父さんから聞いた事実に戸惑いを表せる天音くんすごい。


・電車のガタンゴトン、と木漏れ日と樹々のさわさわ、が場面転換なのとってもいい(二回目)。

 

・カウント一つで「演奏してる感」をパッと出せるのはさすがバンドだなあ…
自分で十分反省してることや、だからこそここに来たことを、わかってくれる虻川さんは本当にいい師匠…………そしてここから、モニターやファインダーをのぞく祐介くんの瞳に光が入るというか、生き生きする感じが出てくるんだよね。本当にすごい…


・塁さんのお写真かっけ〜あと虻川さんのこの電話のやり取りと写真を見る表情だけで、もうある程度祐介くんに「任せてる」んだなあっていうのがわかるのがすごい。


・「やだよオレまたキレんの〜」わかる。「なぁ〜もうその言葉に弱いオレ」わかる。(解釈一致という意味で)

 

・虻川さん本当にいい師匠…………(何度目?)不器用さをわかってくれるとか、引き受けた子の人生を雑に扱うのが嫌とか、ほんと…………


・どこにもない世界、何気にすごく好きな曲だから、この一番といっていいほどいいところで使われてるのがめちゃくちゃ嬉しかった。そこまでメジャーじゃないし最近の曲だし、だけど、めっちゃ合ってるんだよ…。

疾走感のある映像にこのゆったりした三拍子とゆかりさんのモノローグが被さると毎回泣いてしまう。ゆかりさんが生まれて初めて?心の一番奥の本音を誰かにこぼしたシーンだよなあ。胸を開くのは、というのは比喩もあるよね…。

「わたしにとってそれは、あなたでした」「どうか貫いてほしい」泣くしかない。わたしはそれをピロウズに思っている、、、偉そうだけど、、、

「相応しい道」っていうのがピロウズの歌詞っぽくて、同じ歌詞をよく知ってるファン同士だからこそ盛り込めるワードだなあって。そういうの、ファン友達とのやりとりでよくやるもの。共通の、元々の言葉が持つそれを越えた意味を持たせて伝えられる言語になるというか。ゆかりさんにはそういう相手も初めてだったんだろうなあって思うともっと泣く。


・病室のシーン本当にいい。祐介くんの語りかけでふんわりと色合いが変わって音楽が入るとこ、派手じゃないけどだからこその、小さな、でも本人には大きな、メタモルフォーゼ?のシーンだなあって…とても良い。祐介くんがそういう弱さみたいなものをさらけだせたのも、ごめんなさいを素直に言えたのも、これが初めてだったのかもなあ(ゆかりさんに届いてたかはわからないけれど)。


・あんなにずっと見てるのにバスターくん上手く描けないあるある(自分だけ)。


・動かないシンちゃんにせめてスポーツ新聞を持たしてやりたい…wそして新井さんもスクリーンデビュー…!


・ステージと手術室へ向かうシーンのオーバーラップは本当に鳥肌ものだった。ステージへ向かう緊張感とは比べものにはならないだろうけど、わたしもそうやってこう…息を詰めてある種の気合いを入れて仕事に向かったりするから…。あとこれは実感を伴ったあれだけど、どんなに早くなんとかしてほしくても、映像とかで見たことはあっても、やっぱりいざってなるとめちゃくちゃ怖いんだよ。天井が動いていくのも、ドアが開いて閉まるのも、色々かぶせられたりするのも。だから初見時はここでもちょっと泣いてしまった。自分と重なりすぎて。

みんな何かと戦っているのだなあ、そのためにステージに上がるのだなあ、と思ったシーン。


・ツアーファイナル思い出すなあ、、、2019年楽しかったなあ、REBROADCASTツアーよかったよなあ、、、「連れてってやる!この世の果てまで!」泣くしかない。
「そうだろ はしゃいで」のとこでさわおさんはいつも誰かと目を合わせてうなずくような表情する気がするんだけど、この時はその相手が祐介くんのように見えて(多分違うんだろうけど)ぎゅっとする。


・この静かでファンタジックな場面がとても好き。一番最初のモノローグがここに繋がるんだよね…そんで、ライブでも、こんな感覚に陥る時があるというか。わたし自身に歌ってくれてるような気持ちになること、あるんだよ…気のせいだけど…。


・クライマックスのシーンはもう無理泣くしかない(メモの原文ママ)。この曲だけじゃなくピロウズのライブは本当に、なんかもうわかんないけど感情が溢れてしまうことが多くて、、、わかるよ、そこにいるのはわたしだ、そう思うと泣いてしまう。だって現に、本当に、あそこに、Zeppに、いたんだもん、、、
そしてここでポスターとかのメインビジュアルに繋がる、からの主題歌〜〜〜すばらしい、、、

・最後の台詞は本当、本当に…最初見た時は鳥肌が立ったしひきつけ起こすかと思うほど泣いたし何度見ても泣く。ゆかりさん、病院のシーンでもそうだったけど、涙声とセリフへの感情ののせ方のバランスが絶妙なんだよ。それこそグラスからあふれるギリギリのところ、というか。そしてそこからの二人の表情が、ちょっぴり大人になってて…うえええん(泣)。


・エンドロールと主題歌、OK,come on!なヨーコさんの声とキーボードの音が素敵。そして最後に現れるメッセージも毎回泣いちゃう。こちらこそありがとうですよ…

 

 

 思った以上にというか、散文にも程があった…

そしてここからは雑感。

 

わたしはどうしても、ゆかりさんと自分を重ねてしまう。いや恐れ多いのはわかってる、わたしはあんなに見た目も中身も可愛くないし明るくないし強くないし優しくない(重ならないやんけ…)。でもこう…話しても重くなるから話さない、そうやって人と距離をとる、わかってくれる人間はいないから何事も自分で抱え込む、どうしても吐き出したい時は文章で。そして一人で戦う、何を、人生を。だけど辛い時もある、そんな時にピロウズの曲に寄り添ってもらう。そんな感じだったのかなあ、とか。
だからゆかりさんが、好きなこと(この場合は音楽、ピロウズ)を通してわかりあえるというか自分をさらけ出せる、胸(心)を開いて話せる人ができて、祐介くんと出会えて、よかった。わたしにも、音楽を通してそういう友達と呼べる人ができて、良かったなあと思うから。恋愛なのか友情なのか、まあこの場合は恋愛なのだろうけど、そういうのを抜きにしても素敵な関係性だなあって思う。ボーイミーツガール、だけどそれ以前?の、人と人の物語というか。もちろん二人以外の周りの、”優しい人”たちも含めてね。

 

 

そして、映画館で観ていたあの頃ではなく、今になって思うこと。映画の感想というより本当に雑感。

 

ああわたしはこういうことが好きだったんだよなあって、なんだかようやく?思い出した。ライブで好きな音楽に心を震わせて、体を揺らして、わあわあ感情を溢れさせていた、たった数ヶ月前までの自分。多分、諸々がこうなってからずっと、心に麻酔をかけて蓋をしてた、常に。仕事の時じゃなくても仕事の時みたいに。
さわおさんは前に、ライブDVDとかを老後の楽しみだと冗談まじりに言っていた。この映画も、後の世に「ピロウズがどういう人に愛されたバンドだったか」を伝えるなら、という感じで作ったみたいなことも言っていた(確か)。シュリスペイロフのギターの方が、俺たちみたいなファンが、ずっと先の未来にも、ピロウズを好きになった時のことを思い出せるようにこの映画を作ったのかなって思った(と、伝えたら、『ううん、映画撮ってみたかっただけ♪』って言われたらしいけどw)、みたいなことを言っていたけど、まさにその通りの作品だなあと思った。少なくともわたしにとっては。

もちろんわたしはまだ老後とは言えない年齢だけど、色々な要因で知らず知らずのうちに家でも心がずっとファイターモードだったわたしに、数ヶ月前まではあったニュートラルな「自分」を思い出させてくれたというか。まさかこんなに早くそんな機会が訪れるとは思わなかった。


数ヶ月前から世界は変わってしまったと嘆く人が多い。けれど外出の機会が減ってほっとした部分もある人の言葉を見聞きして(もちろん、この先長引いたらどうかとか、別の弊害が出るとか、そういうことは置いといて)、変わる前の世界だって決してすごく生きやすいわけではなかったのだよな、と思った。これも、少なくともわたしにとっては。だからこそここまで生き延びるために、音楽が、ピロウズが必要だった。それをこの映画は思い出させてくれた。

ゆかりさんみたいに戦って、なんとかかんとか山は越えて、けれどごっそり体力も気力も抜けてぼろぼろで、ひどい時は芸術はおろか食べ物の写真ですら受け付けなかった自分。それでも”その”あと、一番最初に食指が動いたのはピロウズのライブDVDだった。なんとなしにデッキに入れて再生して、聴き慣れた曲に心が震えた。べろんべろん相談室を見てw笑えた。そこからやっと少しずつ元の生活に戻ることができて、ああもしかしたらわたしの人生の根幹に一番近いところにいる音楽はピロウズなのかもなあと思った。それをこの映画は思い出させてくれた。

だからわたしは、彼らに本当に、本当に感謝している。ずっと応援し続けたい、そう思っている。もちろん、惰性とか温情とかではなく、音楽性が自分にバシッとくるからというのが一番の理由なのだけど。それでも、今ここにこの自分でいられる理由の一つはピロウズだ、それを忘れたくない、そう思った。

世の中も自分もこれからどうなるかわからない(それは常にだけど)。こんなこと言っていても、わたしは立場(というか、柄?)上、もはや「キミ」と呼びかけてもらえる存在じゃないかもしれない。それはとてもつらいけど。

でも。それでも。ありがとうはこちらの方だ。

エンドロールのメッセージに向かって、たぶん十度目くらいのその言葉を、今日も胸の内でつぶやくのだ。